明治学院大学の「教養教育センター」設立およびその人事における不正について告発する。
1.教授とは?
大学における「教授」という職位については,既に過去記事「奇妙な就業条件」において,「専門業務型裁量労働制」が適用可能な業務として,次のように規定されているということを確認した。
学校教育法(昭和22年法律第26号)に規定する大学における教授研究の業務(主として研究に従事するものに限る。)
同「専門業務型裁量労働制」より
そこでは更に,ここに記される「大学における教授研究の業務」という文言の定義についても確認した。
しかし,これらはあくまで「労働行政」における規定について確認したに留まる。それでは,この点について,大元の「教育行政」ではどのようになっているのであろうか?
先ず,上記に触れられている「学校教育法」であるが,そもそもそこで「大学」がどのように規定されているのかを見るために,幾つかの条文を抜き出してみる。
第三条 学校を設置しようとする者は、学校の種類に応じ、文部科学大臣の定める設備、編制その他に関する設置基準に従い、これを設置しなければならない。
「学校教育法」第3条
第十五条 文部科学大臣は、公立又は私立の大学及び高等専門学校が、設備、授業その他の事項について、法令の規定に違反していると認めるときは、当該学校に対し、必要な措置をとるべきことを勧告することができる。
「学校教育法」第15条
② 文部科学大臣は、前項の規定による勧告によつてもなお当該勧告に係る事項(次項において「勧告事項」という。)が改善されない場合には、当該学校に対し、その変更を命ずることができる。
③ 文部科学大臣は、前項の規定による命令によつてもなお勧告事項が改善されない場合には、当該学校に対し、当該勧告事項に係る組織の廃止を命ずることができる。
④ 文部科学大臣は、第一項の規定による勧告又は第二項若しくは前項の規定による命令を行うために必要があると認めるときは、当該学校に対し、報告又は資料の提出を求めることができる。
第八十三条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
「学校教育法」第83-85条
② 大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
第八十四条 大学は、通信による教育を行うことができる。
第八十五条 大学には、学部を置くことを常例とする。ただし、当該大学の教育研究上の目的を達成するため有益かつ適切である場合においては、学部以外の教育研究上の基本となる組織を置くことができる。
第九十二条 大学には学長、教授、准教授、助教、助手及び事務職員を置かなければならない。ただし、教育研究上の組織編制として適切と認められる場合には、准教授、助教又は助手を置かないことができる。
「学校教育法」第92条
② 大学には、前項のほか、副学長、学部長、講師、技術職員その他必要な職員を置くことができる。
③ 学長は、校務をつかさどり、所属職員を統督する。
④ 副学長は、学長を助け、命を受けて校務をつかさどる。
⑤ 学部長は、学部に関する校務をつかさどる。
⑥ 教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の特に優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
⑦ 准教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の優れた知識、能力及び実績を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
⑧ 助教は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の知識及び能力を有する者であつて、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する。
⑨ 助手は、その所属する組織における教育研究の円滑な実施に必要な業務に従事する。
⑩ 講師は、教授又は准教授に準ずる職務に従事する。
こうして,「専門業務型裁量労働制」が適用可能であるとされる「学校教育法に規定する大学における教授研究の業務」というのは,この第92条6に規定される「教授」の業務を指しているということがわかる。
但し,「専門業務型裁量労働制」が適用可能であるとされる「教授」の規定には,「専攻分野について,教育上,研究上又は実務上の特に優れた知識,能力及び実績を有する者」という文言が省略されている。
改めて言うまでもないことであるが,法の条文というのは,少なくとも当該法体系の中で他の条文と整合するように解釈されねばならない。ここでは,第3条に記される「文部科学大臣の定める設備,編制その他に関する設置基準」に従うように解釈することが求められる。
この点について,改めて次の条文が加えられている。
第九十四条 大学について第三条に規定する設置基準を定める場合及び第四条第五項に規定する基準を定める場合には、文部科学大臣は、審議会等で政令で定めるものに諮問しなければならない。
「学校教育法」第94条
第九十五条 大学の設置の認可を行う場合及び大学に対し第四条第三項若しくは第十五条第二項若しくは第三項の規定による命令又は同条第一項の規定による勧告を行う場合には、文部科学大臣は、審議会等で政令で定めるものに諮問しなければならない。
「学校教育法」第95条
こうして,既述の「学校教育法」第92条6に示された「教授」は,「大学設置基準」において次のようにより厳密に定義されることとなる。
第十三条 教授となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当し、かつ、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする。
「大学設置基準」第13条
一 博士の学位(外国において授与されたこれに相当する学位を含む。)を有し、研究上の業績を有する者
二 研究上の業績が前号の者に準ずると認められる者
三 学位規則(昭和二十八年文部省令第九号)第五条の二に規定する専門職学位(外国において授与されたこれに相当する学位を含む。)を有し、当該専門職学位の専攻分野に関する実務上の業績を有する者
四 大学又は専門職大学において教授、准教授又は基幹教員としての講師の経歴(外国におけるこれらに相当する教員としての経歴を含む。)のある者
五 芸術、体育等については、特殊な技能に秀でていると認められる者
六 専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者
以上から,「大学」は「学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させることを目的」(学校教育法第83条)とし,この目的のために,「教授」は「専攻分野について,教育上,研究上又は実務上の特に優れた知識,能力及び実績を有する者であつて,学生を教授し,その研究を指導し,又は研究に従事する」(学校教育法第92条)のであり,その要件としては,「博士の学位を有し,研究上の業績を有する者」(大学設置基準第13条)でなければならないのである。
2.奇妙な教員選考基準
ところが,労基署に提出された「就業条件」にも見られた様に,こうした法令における厳格な規定がありながら,どこまでもその文意を歪めた「村の掟」を『規程』として仕立てるのが明治学院大学の常である。その「明治学院大学教員選考基準」に目を通すと,ここでもまた奇妙奇天烈な文言が羅列されている。
これを以下に書き起こしてみる。
第1条
「明治学院大学教員選考基準」第1条
教授となることのできる者は,次の各号の一に該当する者とする。
(1) 担当学科目に関連して大学において教授の経歴があり,かつ教育研究上の相当の業績があると認められる者
(2) 大学において担当学科目に関連して,原則として 6年以上の准教授の経歴および9年以上の専任講師もしくは助教以上の経歴があり,かつ教育研究上の業績があると認められる者
(3) 学術的研究機関において,原則として12年以上(3年以内の大学院博士課程在籍期間を含めることができる)担当学科目に関連する研究に従事し,研究上の業績があり,かつ教育上の能力があると認められる者
(4) 担当学科目の特殊性に鑑み,担当科目に関連して,原則として14年以上の実務,実践または社会活動等の経歴があり,かつ格別の知識・経験・技能を有しもって教育上の能力があると認められる者
(5) 第二号から第四号に該当する経歴を合算して,原則14年以上になる者。この年数には,2年以内の博士前期課程(修士課程) 在籍期間,3年以内の専門職学位課程在籍期間,3年以内の博士後期課程在籍期間を含めることができる。
(6) 本学の教育研究にとくに必要と認められる者。本号の適用は,大学評議会において満場一致の承認を要する。
もうここまで来ると余りにも馬鹿馬鹿しいのだが,何が奇妙なのかについては,まともな知的能力を有する者であれば誰でも判断できるであろう。ただ,一言だけ述べておく。
「一体なんなのだ,この大学ゴッコは?」
既に,明治学院大学が教員に対し違法に強要する「裁量労働制偽装」の中身が,「小・中・高の教諭あるいは塾や予備校の講師のような働き方を時間無制限にせよ」というものであるということは証明済みである。そして,まさにそれを裏打ちするものが,上記「教授」資格に関する条項である。
前項で見た「大学設置基準」が第一義的に定める「博士学位取得者」(第13条)という「教授」の要件は,一体どこに消えたのであろうか?
たしかに,「大学設置基準」第13条6に「専攻分野について,特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」とあるものの,「大学設置基準」が意図するところは,あくまでも「博士学位取得者」に準ずるものであり,「学会活動」(全国学会の運営等)や「学術論文・学術書等の執筆活動」(学術成果の公開)の実態が皆無であるような者を「これに準ずる者」などと,とても言うことはできないであろう。
実際,「明治学院大学教員選考基準」第1条に掲げられた「教授」は,どんなに控えめに見ても,「大学設置基準」に規定される「助教」(第16条,しかもその第1項を削除したもの)でしかない。
第十六条 助教となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当し、かつ、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする。
「大学設置基準」第16条
一 第十三条各号又は第十四条各号のいずれかに該当する者
二 修士の学位(医学を履修する課程、歯学を履修する課程、薬学を履修する課程のうち臨床に係る実践的な能力を培うことを主たる目的とするもの又は獣医学を履修する課程を修了した者については、学士の学位)又は学位規則第五条の二に規定する専門職学位(外国において授与されたこれらに相当する学位を含む。)を有する者
三 専攻分野について、知識及び経験を有すると認められる者
こうして,明治学院大学においては,「大学設置基準」が第一義的に明示する「博士学位取得」という条件を全く満たさなくとも,「村の掟」によって,胸を張って「教授」を僭称することができるというカラクリである。
この結果,国から正式な資格認定を受けた「博士学位取得者」に対し,学術研究など興味もない輩がその研究・教育に干渉し「教授権」を侵害するという暴挙が許され続けているわけである。
3.教養教育センター設立の怪
さて,前回の記事で本学の「教養教育センター」の人事について少しく触れて,そこでは稿を改めると言うに留めておいた。以下,それについて詳述するが,ここにもとんでもない問題が潜んでいる。
というのも,明治学院大学では永らく「一般教育部」が大学全体の「教養教育」を担ってきたのであるが,当該部所が2001年度をもって解体されることとなり,その段階で決まっていたのは,当該部所の共通科目担当者は各学部学科へ分属し全学的に共通科目を維持・発展させることに取り組むということだったからである。
このことは,「教養教育センター」が設立される以前,まだ「一般教育部」が存在していた1999年に制定され,2000年に施行された「明治学院大学全学共通科目教育機構規程」に明らかである。
つまり,実際に共通科目の統括権をもっているのはこの「明治学院大学全学共通科目教育機構」なのであり,現在「教養教育センター」と名乗っているものは,当初から共通科目について審議するための中心的組織ではなかったというわけである。
この「教養教育センター」が設立されたのは2002年度のことであるが,実は,元々は「外国語・体育センター」として構想されていたものであった。
ところが,元「一般教育部」所属教員の中で研究実績のない諸領域科目担当教員には学部学科の受け入れ先がなかった為,この不都合を一過的に解消すべく,定年までこの「外国語・体育センター」に所属させ,その後任人事の際にしかるべき「博士学位取得者」を学部・学科で採用することによって,将来的には,当初計画していた「外国語・体育センター」に完全移行するということになったわけだ。
このことは,「教養教育センター」が設立された2002年に制定・施行された「全学共通科目担当専任教員の任用手続きに関する規程」からも推して量ることができる。
先ず,この第3条であるが,
第3条 担当教員が定年等により退職することになったとき,当該担当教員の所属学部長(含教養教育センター長)は学長および全学共通科目教育機構長(以下「機構長」という)に報告し,機構長は学長から指示のあった時点で,全学共通科目教育機構(以下「機構」という) に人事委員会を設ける。
「全学共通科目担当専任教員の任用手続きに関する規程」第3条
2 人事委員会の構成は以下のとおりとする。
(1) 機構長
(2) 外国語教育部会長および諸領域教育部会長
(3) 学科(含む教職課程)主任から互選された 2 名
3 人事委員会は,機構長が主宰し,新たに任用する専任教員の担当科目,所属する学部(含む教養教育センター)等の人事方針について原案を作成し,機構会議に諮る。
となっている。つまり,「全学共通科目担当専任教員」に対する「人事権」に関しては,「教養教育センター」も含めて,この「全学共通科目教育機構」が有しているのであって,「教養教育センター」そのものにはないということが理解される。
ここで注目すべきなのは,2の(3)である。というのも,「人事委員会」の構成メンバーを定めるこの箇所だけ「学科(含む教育課程)主任」となっており,「教養教育センター」は除外されている。そして勿論,(2)の「外国語教育部会長および諸領域教育部会長」というのは,「明治学院大学全学共通科目教育機構規程」第3条2の(4)に示される「教養教育センター各部門主任」とは異なる成員である。
これを「教養教育センター」では「この箇所は誤ってセンターを入れ忘れたものだ」と都合よく解釈しようとするのであるが,上述したように,むしろ,ここにこそ「受け入れ先のなかった諸領域科目担当教員の後任人事」に関する申し合わせが反映されているというわけだ。
あるいは,これに対しては,「全学共通科目担当専任教員の任用手続きに関する規程」第3条3に「新たに任用する専任教員の担当科目,所属する学部(含む教養教育センター)等」と明記されているではないか,という反論があるかもしれない。しかし,それこそ大元の「外国語・体育センター」構想に即した規定(即ち,外国語科目および体育科目の後任補充に関する補足)であり,決して「受け入れ先のない諸領域科目教員」の後任を「教養教育センター」で任用するという主旨ではあり得なかったのだ。
現に「外国語担当教員」の場合,学部学科と教養教育センター間の相互移籍は,これまでも普通に行なわれてきたことであるが,これとは非対称に,「諸領域科目」であれば,移籍が行なわれるのは非常に特殊なケースでしかあり得ないということは事実である。
更に,中山弘正元学院長(かの「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」を表明した方として知られている)も,「教養教育センター」設立までの経緯の不自然さについて,次の様に指摘しておられる。
当該箇所を書き起こすと,次の通りである。
(……)そういう風に五学部に分散したのにもかかわらず,私にもよく分かりませんが,教養教育センターというのが新しく創られまして,一般教育部の方々の一部でどうしても分属は嫌だというご意志の方々は,センター所属という形で分属せずに残ったのです。それで,この方々がいわゆる全学的な基礎科目の事務局的な役目もするという構造に現在なっております。
現在,同センターのウェブサイトを見ると,あたかもこの「教養教育センター」が旧「一般教育部」を継承した組織であるかのような印象を与えようと画策しているようであるが,全くの虚言であることは明白である。この様に同センターは,「教養教育」などという大袈裟な名称を騙ってはいるものの,ハナから大学教育における「教養」とは無関係だったのである。
4.大学組織の私物化と不正人事
ところが,時を経るに従って,「教養教育センター」の一部の教員らがこうした全学的な申し合わせの上に成立している規程を恣意的に歪曲し,その運営を私物化していくことになる。
これらの教員らは「教養教育センター」の設立案を独自に打ち立てていくが,それは既に1999年に「明治学院大学全学共通科目教育機構規程」が制定された後のことである。
この「教養教育センター」が「人事権」を有していないということについては,前項で確認済みであるのでここでは繰り返さない。即ち,上記文書は,これを起草した一部の教員らが,既にこの時点で「全学共通科目担当専任教員の任用手続きに関する規程」の内容を恣意的に歪曲しているということを示す紛れもない物証である。
また,「共通科目」に関して運営・管理するのは,あくまでも「明治学院大学全学共通科目教育機構」であり,2002年の「一般教育部」解体の後には,「教養教育センター」とは全く独立に,各学部学科への分属者ら全てが「共通科目」を担当することになっているのであるから,「教養教育センター」が「共通科目」の全体運営に対して横から口を挟むなど越権行為であり,『規程』に定められた制度上ありえないことなのである。
このため,こうして教授を僭称する一部の教員が法規を無視して私物化した似非組織の齎す混乱が脈々と続くことになるのであるが,例えば『2014年度自己点検・評価報告書』でも「改善すべき事項」(大学共通)として,次の様に指摘されている。
教員組織での課題としては、教養教育において教養教育センターと全学共通科目教育機構の 2 つの組織があるため、役割分担が時として不明瞭になる点が挙げられる。
『2014年度自己点検・評価報告書』52頁
この様な一部の教員による組織の「私物化」の兆候は,筆者が本学に入職し「一般教育部」の教員として着任した2001年度には,既に見られた。
先ず,「一般教育部」がこの2001年度をもって「解体」されることになっていたにも拘わらず,その中で,筆者の他2名の教員(寺田俊郎氏,森本泉氏)を新たに任用する。その最初に開催された教授会が紛糾することになった。
というのも,当時の一般教育部長であった池上康夫教授が,我々3名を採用するにあたって,当年度一年限りで当該部署が「解体」されるという事実を伝えていなかったということが,その会議の場で発覚したからだ。即ち,同教授らは,所属先の部署が一年限りで「解体」されるという事実を我々新任らに秘匿することで,新設を目論む「教養教育センター」の成員に強引に仕立てようと企てていたというわけだ。
しかし,我々3名はこの「教養教育センター」設立の目論見に関する情報をあらゆる方面から入手して検討を重ねた。その結果,この「明学の掃き溜め」(当時はそのように渾名されていた)に入ることを拒否し,各学部に分属することを選択することになる。
池上康夫教授と嶋田彩司教授は,事ある毎に筆者に様々な嫌がらせをしてきたのであるが(多くは,筆者が「博士学位」をもっていること,前職が「国立大学助手」であったことに対する妬みによるものである),2009年度に行なわれた「倫理学」担当教員の後任人事に関する席においては,遂に専門的研究領域への不当な干渉を行うまでに至る。
この時,筆者はまだ「文学部フランス文学科」に属していたが,共通科目担当教員の中には筆者を除いて哲学・思想領域科目の担当教員が一人もいなかったため(これは,哲学・論理学の専任であった千葉茂美教授が2003年度をもって退職した後,大学が先の「全学共通科目担当専任教員の任用手続きに関する規程」に背き,その後任補充をせぬまま現在に至っているからである),「教養教育センター」で立ち上げられた人事委員会における副査を委嘱されることになる。
数十名の応募者がある中,苦労して最終的に候補者を数名に絞った後のことである。本来は,ここで絞った候補者を面接に呼び,その中かから最終的に1名を選出するはずである。ところが,事もあろうにこの段階になって突然,池上教授と嶋田教授が,それまで候補とされなかった全く別の1名を加えると言い出し,勝手に面接候補者にしてしまったのである。
確認しておくが,この両教授とも専門は「日本文学」であり,しかも「博士学位」未取得者である。更に「哲学・思想」とは領域的に全く関係がないため,専門的研究領域に対する判断も科目に対する判断も正当にできるはずはない。
事実,「一般教育部」時代からの申し合わせでは,「哲学」と「倫理学」の担当者は「全学共通科目」のコマに加え,学科科目として「哲学(専)」を一コマ担当するという決まりになっていたが,これを知らない両教授が勝手に後任人事を進めたため,このカリキュラムの連動性も毀損されることとなった。
更に,面接後の人事委員会では,こちらが幾ら「専門的研究領域」と「哲学・思想領域における科目連動性」からの理由を述べて説明しても,池上教授と嶋田教授は一切それに取り合わず,最後には,大声で暴言を浴びせて恫喝し,その勝手に加えた1名を「委員会の総意」として「教養教育センター」の人事教授会で報告し,承認を得てしまったのである。
普通に考えて,人事におけるこの様な不正およびその隠蔽工作は,それこそ「懲戒処分」となるべき類のものではないだろうか。
ところが,摩訶不思議なことに,明治学院大学では,「大学設置基準」が第一義的に明示する「博士学位取得」という条件を満たさずに「教授」を僭称できる輩は,組織を私物化しても何のお咎めも受けないため,「不正」を隠蔽する特権ももっているわけである。
これを読む読者の中には,おそらくは大学非常勤講師の方々も数多くおられ,もしかするとまさにこの「倫理学」公募に応募された方もあるかも知れない。しかし,その内実は,そもそも選考倍率云々が最早意味をなさないような選考方法だったのである。そのことを大いに憤って頂きたい。
だが,誰よりもこのことに憤りを覚えているのは筆者自身である。
この「不正人事」については,その後も「人権委員会」・「監査室」等々様々な学内窓口に幾度となく文書で通報したもののの,やはり今に至るまで全くの無回答である。おそらくは,この様な選考方法が大学全体で常態化しているために,「不正」にはあたらないということなのだろう。
むしろ「労働基準法違反」の隠蔽工作が常態化している違法組織においては,この程度のことが行われていても何ら不思議ではないのかもしれない。
5.明治学院大学事件の真相
さて,こうした「不正人事」の末,2010年度に「倫理学」の専任として「教養教育センター」に着任したのが寄川条路氏であった。
その寄川教授は,着任後に度々嶋田教授と意見の衝突を起こし,また,教授会の席では嶋田教授が寄川教授の発言中に罵声を浴びせるなどするようになっていく。このため寄川教授は,徐々に教養教育センターの方針にも逆らうようになり,遂には学内で数々のトラブルを起こすようになっていった。
その中で,寄川教授の懲戒騒動が繰り広げられるようになる。これも,池上教授と嶋田教授が人事で不正を行い,自らの専門領域ではない分野に不当に干渉し,共通科目担当教員同士の意思疎通を妨害し続けた結果である。
しかし,筆者はこの件に関しては,最初から最後まで一切を関知していなかった。というのは,この事件が勃発し「教養教育センター」内が慌ただしくなっていた頃,筆者が担当する「哲学」と,同教授が担当する「倫理学」は既にカリキュラム上の連動性が実質的に絶たれていたからである。と同時に,思想系科目として隣接する領域の科目担当者の問題でありながらも,何故か筆者にはその情報が一切入らないよう周りが工作していたのである。
ただ,今現在,その全容については,寄川条路編『実録明治学院〈授業盗聴〉事件』(社会評論社,2021年)で知ることができる。
また,同事件の裁判の概要を掲載したウェブサイトが開設されている。
これによれば,事件の詳細は次のようなものであるという。
2015年4月、教授は1回目の授業をしていました。そのとき、教職員がスマホを使って授業を録音し、録音データを調査委員会に渡したとのことです。調査委員長は録音を聞き、調査対象の教授を呼び出して尋問しました。録音があることは隠したまま、「授業の中で、大学の方針に反対すると語っていたのか」と詰問してきました。その後、調査委員長が尋問の結果を教授会に報告し、教授を処分しました。これが明治学院大学のやり方です。
ウェブサイト「明治学院大学事件」より「事件の詳細」
大学当局は、法に触れないぎりぎりのところで盗聴行為を繰り返して秘密録音をしていました。日本の法律では、盗聴も秘密録音もそれだけでは違法行為とはならないので、顧問弁護士が大学執行部や調査委員会に事前に指示を出していました。慣例的に授業の盗聴を行っている明治学院大学では、法的な対応には抜かりがありません。たとえ盗聴行為や秘密録音がばれたとしても、裁判にならなければ事実を認めることもないですし、録音者や録音資料を開示することもありません。「録音について説明する必要も開示する義務もない」(副学長)というのが、大学の見解でした。
2015年12月、大学当局は、授業の中で大学の運営方針を批判したとして教授を厳重注意にしました。本当は懲戒処分にしたかったのですが、大学を批判した程度で懲戒処分にすると裁判で負けるという顧問弁護士の助言に従って、とりあえず注意して、次の機会に確実に解雇できるように注意を重ねていきます。明治学院大学ではこれを「がれき集め」と呼んでいます。ところが、ここから予期せぬ方向へと展開していきます。厳重注意がなされたので、教授は、録音テープを使用した調査委員長の名前を公表して大学当局を告発することにしたのです。
大学の不正行為を知った学生たちは、手分けをして情報収集に行ってくれました。調査委員長のところに行った学生によると、「大学の方針に反対する教員が複数いて、教授もその一人だったから、授業を録音した」とのことでした。こうして大学当局による授業の盗聴と秘密録音が学生たちの間にも知れ渡ると、大学側は開き直って「授業の録音は正当なものである」(副学長)と言い逃れをしてきました。すると、学生たちが教授を支援したり、大学を非難したりするに至りました。教授が行ったアンケート調査によると、多くの学生が大学の盗聴行為を「犯罪」だと非難していました。調査結果を教授が公表しようとすると、ついには理事会が出てきて、2016年10月、教授を懲戒解雇したのです。
ところが、懲戒解雇は裁判では認められないという顧問弁護士からの助言もあり、普通解雇を抱き合わせにして教授を解雇することしました。教授は、理事会の意向で、明治学院大学のキリスト教主義を批判する不適切な教員ということになりました。理事会は、まずは解雇しておけばよいだろうと考えて、たとえ裁判になっても、民事事件だから金さえ払えば済むものと予想していました。顧問弁護士と相談した副学長は、「定年までの賃金の半分を支払えばよいから、8000万円から9000万円くらい、解雇が無効だとしても、1億円から1億数千万円の和解金を支払えば済む」と豪語していました。なお、明治学院大学は、2010年にも不当解雇裁判で敗訴しており、数千万円の解決金を払っていました。
さて、2016年10月、教授が労働審判を申し立てたところ、労働審判委員会は、すぐさま解雇を無効として復職を提案してくれました。しかし、大学が拒否したため和解は不成立となりました。そこで、2016年12月、教授は、東京地裁に地位確認を求めて提訴したのです。数回にわたって書面が提出された後、証人尋問があり、その後、和解協議に入りました。2018年4月、東京地裁は、解雇の撤回と無断録音の謝罪を和解案として提示しましたが、大学が謝罪を拒否したので和解は不成立となりました。そしてついに2018年6月28日、解雇は違法であるとの判決が下ったのです。
その内容を知れば知るほど,何故,大学側がここまで無理を通して「解雇権の濫用」としか思えない愚行を押し通そうとしたのか,誰もが首を傾げざるをえないであろう。
実は,この寄川教授の解雇騒動には,別件の組織的隠蔽工作が絡んでいたのである。
ここで読者は,当noteアカウントのプロフィールとして固定した「開設趣意」を再見されたい。大学(学院)が寄川教授を懲戒処分にしようとしていた2015年12月は,丁度,筆者が「労災補償給付不支給決定取消請求」の行政事件訴訟で高裁に控訴した頃である。
実は,寄川教授は,原告(筆者)側の「証人」として名乗りを上げていたのである。つまり,大学(学院)側には,この労災行政訴訟の妨害,即ち「証明妨害」の意図が明確にあったと考えられる。
こうして,明治学院は組織的に「労災かくし」を工作しており,その隠蔽工作の一環として,いわば「見せしめ」に寄川教授の不当解雇を行ったというわけである。
次は,この組織的人権侵害に加担した人物らの名簿である。
特に,「教員」については,データベース型研究者総覧 researchmap でその学術業績をご確認頂き,また,それぞれの分野の専門集団の方々にこれら各人の素晴らしい業績の数々をご批判頂きたい。そして,これが最高学府たる大学で行われた組織的犯罪であるということを殊更に記憶されたい。
6.インテルメッツォ ― 改めて,大学とは?
本学では少なくない数の学生教職員が,ある特定の常用漢字を読み書きできないという奇妙な現象に遭遇し,筆者が「教育業務」を正常に遂行する上で支障を来している。
非常に驚くべきことなのだが,こぞって「論理学」を「倫理学」と誤記するのである。
しかし,「論」と「倫」は,「読み」も「偏」も全く異なり,しかも義務教育で身に付けるはずの常用漢字である。また,「論理学」と「倫理学」という科目の内容にしても,高校教育を受けているならば,前者は「数学」,後者は「倫理社会」で学修するものであるため,少なくともこれらが全く異なる分野であるということは容易に判断できるはずだ。
ところが, 偶々誤記したというレベルではなく,何度指摘し修正させても,一学期間の授業全般を通じてずっと「論理」を「倫理」と書き続ける履修者が,しかも何名も発生するのである。それも,「論理学」の授業内容を本当に「倫理学」であると信じており,初回授業のガイダンスで自由記述によるアンケートにより当該授業を履修しようとした理由を書かせると,こぞって「道徳」とか「価値」の問題に関心がある云々と回答してくるのだ。
勿論,筆者の担当する全ての授業「シラバス」には,
このシラバスおよび初回授業(ガイダンス)に説明された内容を理解していないことが発覚した場合,また各回授業(初回ガイダンスを含む)における指示を無視した場合には,大学生として備えるべき学力を有しないと見做し,即刻「履修放棄」(評価不能)として扱う。
と明記されており,更に,初回授業にも教科書を準備して臨むように指示してあるため,それらに目を通していれば,およそ「倫理学」とは無関係な内容であることは誰でもわかるであろう。
実際,筆者の担当する「論理学」は,全国全世界のどの大学の一般教育カリキュラムにおいても提供されている最も基礎的な「現代論理学」のごくごく初等的な内容であり,20世紀にその基礎が完成し,現代のおよそあらゆる学問分野において論証の前提となっている「命題論理」と「述語論理」の仕組みについて概説するものであるからだ。
そうでありながら,一体どうすれば,この「論理学」と「倫理学」とを混同できるというのだろうか? 世にも奇妙な現象である。
このような現象が多発するようになったのは10数年前からなのだが,これに加えて,数年前には「授業評価アンケート」の結果に「宗教のようだった。」とただ一言の批判が,しかも全く同じ文言で複数の記入者により書かれていた。しかし,「論理学」の内容は,上記の通り,最も標準的基礎的な「現代論理学」の内容であり,どこに「宗教」が入るのだろうか?
ここで,もしもこの記入者らが「論理学」を「倫理学」だと思い込んでいたとするならば腑に落ちる。それでも,この「論理学」の授業を欠席なく出席し続けていれば,仮に初めのうち授業名を「倫理学」だと思い込んでいたとしても,その内容を「倫理学」そのものと取り違えるはずはない。
つまり,授業に一度も出席したことのない人物が授業評価アンケート調査の際に紛れ込んで,わざわざ先のような文言を記したのだということは明白である。
しかし,筆者の授業は,「大学設置基準」を遵守するために,以前から特段の事由がない限り「無断欠席」を認めず,「欠席」すべき特別な事情がある場合には,必ず次回出席の際にこちらで用意した「欠席届」を出してもらうことにしている。このため,ある授業回を「無断欠席」した場合には,その場で即刻「履修放棄」と見做し「期末評価不能」にするので,当然,「期末レポート」も受理しない(これについては「シラバス」に明記し,初回授業ガイダンスで詳しく説明する)。
ところが不思議なことに,期末評価時期の最後の数回になると突然,それまでずっと「無断欠席」だった不審な学生ら数名が入り込んで来る。そして,それまで出席したことがないので見たこともない顔であるため直ぐにわかり,しかも非常に不審な挙動をしている。
というのも,授業中は「私語」を厳禁にしているために,期末の時期ともなれば誰一人として「私語」をする履修者はいないにも拘らず,そのような授業の雰囲気を知らない学生らは,他の授業と全く同じ態度で一箇所に固まって授業を無視しながら私語を始める。このため,何度も注意せざるをえず,他の履修者の迷惑そうな視線を集めることになるのであるが,それらの不審な学生は,それまで出席したこともなく授業内容も全く理解できないため,毎回授業の最後に書かせる「授業要約」(筆者の授業では,筆者が作成したオリジナルのフォームを印刷配布することにしている)の纏め方もわかるはずもなく,提出せずにそのまま教室から出ていくため,余計に目立つわけである。
こうして,「授業評価アンケート」調査が「期末レポート」提出の時期と大体重なるわけだが,そのような学生らは,不思議なことに,レポートは出さずに「授業アンケート」だけを出した後,逃げるように教室から出ていくのだ。つまり,全く授業内容には関心もないにも拘わらず履修登録をしておいて,何故か「授業評価アンケート」だけはわざわざ提出するのである。余りにも異常である。
これに関連して,一昨年(2020年)から大学の指示で LMS(manaba)上で授業を行うようになったわけだが,履修登録だけはするものの,その後の授業回でも「コースニュース」や「オンライン入力レポート」などには全くアクセスもなく,そのまま「履修放棄」として「期末評価不能」となった学生が何名もいる。人数制限をしている授業であり,真面目に履修したいと思いながら履修登録できなかった学生の迷惑など何も考えていないのだろう。
そこで昨秋,「初回ガイダンス」と「第2回授業」で指示を無視し「無断欠席」扱いとなった履修者の登録を抹消して頂くよう教務課へ願い出た。既に履修者のほうが「履修放棄」の意思を表明し,その段階で「期末評価不能」となるわけであるが,学生の側からすればN評価(評価不能)が付かずに済むのであるのだから,寧ろそのほうが利益になるはずだ。ところが,奇妙なことに,教務課が渋り出したのだ。
さて,上に「論理学」を「倫理学」と混同する現象が多発したのは10年数年前からだということを述べたが,2011年に筆者が労災申請をした後,それに続く労基署の調査において,当時の学長大西晴樹教授が筆者の担当科目を誤認し「倫理学」だと証言したことに端を発している。
このため,学長が「教養教育センター」の一部の教員らと示し合わせた際,その関係者全員が筆者の担当科目を正確に認識していなかったという事情も手伝って,「倫理学」の担当者であると誤認し,その情報が共有・拡散され独り歩きするようになったものと思われる。
付言すれば,「学長」は「全学共通科目教育機構長」を兼任している。つまり,大西学長は,共通科目を統括する「全学共通科目教育機構」の長でありながら,共通科目担当教員が何の科目を担当しているのかということにすら関心もなく確認もしなかったのである。これに比して,明治学院大学の学長に大学人としての教養と良識があったのは脇田良一学長までであったのだろう。
ここで,前項で明らかにした通り,本学では「授業盗聴」が横行しており,それが現実であることは寄川条路教授の一件で確証済みである。
更に,2011年に筆者が労災申請をした際の労基署調査により,大学が筆者に対する授業妨害を組織的に行うことで筆者の傷病を悪化させようと目論見,それを「授業ボイコット」と歪曲して広めた上で,学生およびその保証人らを唆し,筆者を「問題教員」として仕立て上げようと工作していた事実が,提出された物証によって明らかになっている(これについては,稿を改めて詳述する)。
特筆すべきは,この2011年以降,筆者の労災の審査請求・再審査請求が進行する最中,大教室で開講していた筆者の「哲学」の授業において,やはり見慣れない学生(おそらくは,「履修登録」だけして「無断欠席」を続け,既に「履修放棄」扱いになっている学生)が潜り込み,教壇に立つ筆者を授業中に許可なくずっと「ホームビデオカメラ」で撮り続けていたという事実がある。学生が好学のために「スマホ」で撮るということであれば,もしかしたらあり得るかもしれない。しかし,その授業内容自体にはハナから関心もない輩が授業開始から終了に至るまでの間ずっと「ホームビデオカメラ」を構え堂々と撮り続けるなど,日本国内の大学を隈なく見回してみてもこの明治学院大学だけではないだろうか。
これは,ある界隈の教職員が,特定の教員を監視する目的で学生を唆し協力させたものであると考えるのが妥当だろう。
さて,「教育憲法」とも言われる「教育基本法」において,「大学の役割」は次のように規定されている。
第七条 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
「教育基本法」第7条
また,再掲ではあるが,「学校教育法」には次のようにある。
第八十三条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
「学校教育法」第83条
② 大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
これらのどこにも,「特定の博士学位取得者を愚弄する目的で監視・盗撮し,その教授権を侵害するものとする」などとは記載されていない。そして,そのような大学人としてあるまじき恥ずかしい行為を恥ずかしいとも思わないのが,「大学ゴッコ」をしている組織のレベルなのであろう。