無伴奏
注文していたバッハ《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》 (BWV1001-1006) の CD が届いた。川原千真さんが演奏したものだ。
この演奏で使用しているヴァイオリンは,ジェノヴァの農家の納屋で10年ほど前に発見されたもので,18世紀後半の北イタリアで製作されたそのままの状態のものを使っている。即ち,他の全てのヴァイオリンの「名器」が被った「拷問」と「改造」とを奇跡的に免れた楽器である。
バッハの《無伴奏ヴァイオリン》であれば,モダン楽器によるものは言うまでもなく,古楽器によるものでさえかなりの CD が出されている。「今更」といった感じも否めない。
しかし,私は「音楽三昧」での川原さんの演奏を聴いて1,いつも只者じゃないと感じていたので,いつか《無伴奏》を出してくれないかと期待していた。特に,川原さんの〈シャコンヌ〉を聴いてみたかった。以前に演奏会があるというチラシをみたときに,何とか時間をとって,その日だけ聴きにいった。予想通り,素晴らしかった。あの様な演奏は後にも先にもない。
音楽そのもの
古楽器の録音の場合には,その場所の音響状態にかなり左右される。極端なことを言えば,演奏が行われる場所の音響状態も含めて「作品」だということができる。だから,古楽のライブというのは,本当に「一期一会」なのだ2。
単に「オリジナル」楽器を使えばよいというものでもない。「オリジナル」楽器を使いながらも全く音楽になってない演奏など腐るほどある。それは全て精彩さに欠ける。そういう演奏によって,「古楽は発展途上の音楽」であることが印象付けられてきた。しかし,川原さんの演奏は,その程度の「古楽」の演奏ではない。
川原さんには,自らが憧れるヴァイオリン弾きがいたようであるが,その人に一度習いたいと思っていたようだ。演奏会にそのヴァイオリン弾きが聴きにきて,後で話しをしたときに,その人に「ヴァイオリンを教えてほしい」と言われたらしい。
今目の前にある「作品」,その響きをここで実現するために,使えるものを使う — ただ,それだけのこと。川原さんは,モダン奏法も古楽奏法も身に付けているし,「作品」の部分部分でそれらを使い分けることもできる。それは「音楽三昧」のライブのあり方そのものだった。場合によっては,リハーサルと本番とでさえ,奏法を微妙に変えることがあった。その「精度」で音楽をやっているのである。
モダン奏法がいいのか,古楽奏法がいいのか,その様に問うこと自体に意味はない。ありとあらゆる可能性の中から,「それ」を選ぶ。それは「他ならぬもの」であり,ということは,「それ」が答えである。実際,このCDを聴くと,それはモダン奏法でもあり古楽奏法でもある。同時に,モダン奏法でもなく古楽奏法でもない。
その問いそのものが愚かしい — 「これ」は「音楽」そのものなのだから。
《フーガの技法》
この CD が出されたのは,丁度,昨年の今頃である。そして,「音楽三昧」は,諸々の理由から,昨年の1月に最終公演を終え,事実上解散した。彼らにとって,2009年は一つの節目だった。私にとっても同じだ。この CD を聴きながら,それを確認している。
「音楽三昧」のメンバーは,その後,それぞれの演奏活動を精力的にやっているが,「音楽三昧」の弦低音パートを演奏し,毎回の編曲を担当していた田崎瑞博さんと共に,川原さんは「古典四重奏団」を結成している。古典期以降,「弦楽四重奏」は作曲家が自らの音楽的研究をする分野として重視されることになっていくが,「古典四重奏団」は,それを中心としたレパートリーをもつ。
もう既に幾つか CD が出ていて,丁度,私が大学に入職した年にはバッハの《フーガの技法 Die Kunst der Fuge》 BWV 1080 がプレスされていた。
しかし,私はこれをずっと入手せずにいた。というのは,私にとってはバッハのこの曲は余りにも思い入れが強く,少なくとも「音楽から少しずつ離れていこう」と思い始めていた頃だけに,思い止まったのだろう。それ以来,今に至るまで,進んで聴きたいとは思わなかった。今回,川原さんの《無伴奏》を購入するときに,何故か《フーガの技法》も聴きたくなり,同時購入することにした。
今日はこれを聴きながら散歩した。
洗練され完成度の高い演奏だと思わされた。この曲は,あらゆる感情を排したところにある形式美を表すと言われることがあるが,それは虚偽である。むしろあらゆる感情が「統合」されている。この演奏はそれを実証している。
それに,そう響いてほしいと思う響きが鳴り渡る。いい演奏だと思う。
未完のフーガ
それにしても,最後の「未完の三重フーガ」は,こんなにも美しかったであろうか。
この曲集全体は「共通のテーマ」 — d-a-f-d-cis-d-e-f-g-f-e-d の音列 — に基づいて作られている。「フーガ」のあらゆる技法を駆使し,やがてその到達点たる,この「三重フーガ」に至り着く。「三重フーガ」というのは,テーマが3つあるということだ。4声体でありながら,独立したテーマを3つ使い,驚くべき自由さで曲を展開していく。もはや人間技ではない「神の御手業」である。
ところが,この「三重フーガ」には,不思議なことに,それまでずっと統一して使われ続けていた「共通テーマ」が出てこない。この最後のフーガにだけ現れないのである。
しかし,実は,もしもこの曲が「完成」されていたとすれば,ここに共通テーマが更に加わり,「四重フーガ」になるはずだった。実際,これら4つのテーマが実に見事に組み合わさるということは,何人もの演奏家が試み,既に実証されているところである。
次は,オランダバッハ協会による補完版「四重フーガ」の演奏である3。
そうでありながら,バッハ自身は,共通テーマが入る前に,意図的に作曲を中断した。長い間,「この曲の作曲中にバッハが死去したために中断された」と考えられてきたが,既に,研究者らは,バッハが自らの意志によって中断したということを明らかにしている。
何故,バッハは,「四重フーガ」を完成させなかったのであろうか?非他なるもの
明らかに,「三重フーガ」の3つの独立したテーマは,統一して使われてきた共通テーマから導出されたものである。それまで展開されてきた諸々のフーガが,この単一のテーマから作られたように,最後の「三重フーガ」の各々のテーマそのものは,この単一のテーマから生じ,そこに収斂すべく作られた。
このとき,この「共通のテーマ」は「響き」を越えた「響き」であることに気付かねばならない。いわば,「(鳴り響く)音楽」に対する「(耳には聴こえない)メタ音楽」なのである。
「音楽」は何によって「音楽」と成るのか — この究極的問いに答えて,バッハは,「在りて在る者 Ego sum qui SUM」を表現しようとした。
個々の音楽作品が展開される「テーマ」が個々の「存在」4であるとすれば,その「存在」(テーマ)そのものを在らしめるものは「存在の存在」であるが,それは表現を越えるものでなければならない。しかし,「それ」を表現しようとすれば,個々の「存在」を否定することによって,正しく表現される。「それ」は「それ以外のものではないもの」だからである。
「非他なるもの non-aliud」 — それこそ,未完の「三重フーガ」によって,バッハが表現したものであるに違いない。
伝統的「存在論」を響きとして完全に形象化しえた音楽家は,バッハ唯一人のみである。
14
「三重フーガ」の第3主題は b-a-c-h である。それはバッハその人の名前であると共に,キリスト教的カバラによって \(2+1+3+8=14\) となる。そして,「三重フーガ」は第14番目のフーガである。
思えば,今日は14日であった。
旧ウェブ日記2010年3月14日付
注
- 川原さんは,田中潤一先生が率いる「音楽三昧」の弦パートを受け持っていた。このアンサンブルは基本的には,フルート,ヴァイオリン,チェロ,ベース,チェンバロの5重奏だが,全員がモダン楽器と古楽器の奏法を演奏することができるばかりか,演奏途中でも平気で楽器の持ち替えをする。演奏される曲はクラシックの名曲を自分らで独自にアレンジしたものばかり。とにかく,この人たちには不可能はないのかと思うくらい,ライブでの緊迫した演奏は凄まじかった。
- 実を言えば,そのライブで聴いた音と比べると,この録音での音は,期待しているほどではなかった。ライブでの緊張感に欠ける。もしかしたら浚いすぎたのかもしれない。この CD が悪いということを言っているのではない。これまで私が聴いた CD の中では,並ぶものがないほどに良い。
- この動画は,旧ウェブサイトから当記事を転載するにあたって,新たに埋め込んだ。
- あるいはもっとキリスト教神学に寄せれば,「基本主題」から派生した3つの独立した主題は,父-子-聖霊という「三つの位格 tres personae」として解釈される余地も残される。その場合,これらを越えた「一なる実体 una substantia」を「共通テーマ」が象徴すとも考えられるだろう。