紀要
今年度の業績として紀要に掲載する予定の論文があるが,その初校の校正が終わったので提出した。学術的に価値のある論文は,本学に入職して以来初めて書いたことになる。
『デカルト『省察』の(共同研究による)批判的註解とその基本的テーマの問題論的研究(研究課題番号58310002)』(昭和60年度科学研究補助金(総合研究A)研究成果報告書,昭和61年3月,研究代表者 所雄章(中央大学教授))の26頁注(2)に所先生が記した内容に対し,村上勝三先生が『デカルト形而上学の成立』(勁草書房,1990年)の153頁注45にて反論し,これに対し,所先生が『デカルト『省察』訳解』(岩波書店,2004年)の48~50頁にて再反論し現在に至っている内容に関するものである。
それは「第1省察」における「数学的真理の懐疑」(AT版第7巻21頁1~16行)に対する解釈における問題である。
TeX形式
「学術的に価値のある」というのは,与えられたテクストの文法解析を自らに可能な範囲で徹底して行い,その全てを公開したというその一点にある。
秋学期に入って体調がある程度回復した頃から少しずつやり始め,「もしも締切日までに書き上がるならば提出しよう」くらいのつもりで取り組んだのであるが,締切日の2週間前には原稿のほぼ全体が完成してしまったので,そのまま提出することにした。
「原文引用」や「脚注」は,昨年度の様にお気楽に書いたエセーとは異なるほどに密度の濃いもので,何といっても,所先生によって始められたデカルト文献学に特徴的な「ルビ」の使用をしている上,全体の分量にしても,400字詰原稿用紙に換算して64枚分になるため,普通の学会誌ではとても受け付けては貰えないだろう。
原稿を提出したときにはファイルも一緒に提出するが,私は TeX 形式のまま提出することにした。論叢編集室ではその形式のままで提出頂いて結構だということだったからである。その結果かどうかわからないが,初稿はそのまま「脚注」形式になっていた。
これで最後
これは研究に対する一つの方向を決意した記念でもあり,また,お仕事ではなく純然たる自らの研究業績としては,日本語で記す最後の原稿となるであろう。
というのも,私が学位を取得し出版した様な内容のものをいくらこの国で公開したとしても,そもそも高等教育を受けた人間がもつべき教養をもたない人間が高等教育に我が物顔で携わって空疎な思弁を弄しているような教育・学術界の現状では,やっていっても仕方がないと結論したからである。
現にこれまで所属していた学会誌に目を通す限り,ヨーロッパ精神史において重要な位置を占める問題は全く取り上げられず,最も知りたい事柄についても何も書かれておらず,ある事柄を知るにあたって,最初からその様な国内論文を読まずに自ら原著にあたった方が遥かに有益で豊饒な情報がえられるようなことは,頻繁に起こるからである。
また,逆に,私が関心をもって行っている様な事柄は,国内の研究者には「どうでもよい」ことなのであろう。現に,拙書が上梓されて以来今に至るまで,日本の学術会が変わったなどという事実はなく,鸚鵡返しに「バカの一つ覚え」を繰り返している似非研究者が跡を断たない。
それに対して,日本人がヨーロッパ人に認めてもらえるというのは並大抵のことではないにせよ,文献学的な成果については,公正に評価されるだろう。
研究の方向付け
私の研究の方向付けとしては,現在中央公論社から刊行が予定されている『哲学の歴史』に「ルネサンス思想とデカルト」という短いコラムを執筆することになっていて,それを読めば少しは理解できるだろうと思っている。
上述の紀要論文を執筆しているときに思い付きで調べてみたところ,それまで断片的にしかわからず,推測でしか繋がらなかった着想が,全て噛み合い,驚くべき姿を露にしつつある。
我々はまだ本当のデカルトについて何も知らないのだろう。
さて,今年度紀要(明治学院大学リベラル・アーツ論叢)に掲載される予定の論題であるが,「欺瞞く神,懐疑う私」である。
旧ウェブ日記2006年1月5日付