通告
一昨年(2008年)11月23日以来,大学執行部を中心として,学内の幾つかの部署には上記「最後通告」を含めて計9通の内容証明郵便を出している。
これらは学内組織の隠蔽的体質を質すための質問状の形をとってはいるものの,回答の有無に拘らず,事実を浮き彫りにするような文面になっている。学内組織の異常な体質が変わらない限り,どの様に回答しようと,その異常さが露になるように誘導しているからだ。
結果,最初の文書に対しては,「内容証明」によって回答してほしいというこちらの要望にも拘らず,「通常の文書」で,しかも屁理屈が並べられていたが,それは計算済みのことだったので,すかさず,その詭弁を明らかにし,再度,同内容について回答を要求した「内容証明」を送付したところ,そのままでは分が悪いと思ったのだろう,大学側は,今度は学部長を介して圧力をかけ始めた。
望むところだった。既に,2008年11月23日付の内容証明郵便を送付したときに,それに対する回答の如何に拘らず,別件に関する内容証明を送付することを決めていた。後はそれを実行するのみだった。
悪弊
各々の文書は,そこに記された各々の事象について,事実関係を明らかにすることになる。しかし,各々の事実には,個々の真理性を越えて,それら相互の関係性が生まれる。相互の関係性から生ずる全体的な事実が明らかになったときに,その段階で,個々の事実の火消しをしたとしても手遅れなのである。
そのときに明らかになるのは,個々の事実なのではなく,現体制において常態化した悪弊であるからである。即ち,組織の体質を描き出すことになるからである。
今回,このことに関わるのは,「大学執行部」,「学部」,「学科」であり,これに関係する全ての人間である。しかも,2008年11月23日から2009年3月6日までに送付された8通の文書は,内容証明郵便である。第三者から見ても尋常ではないと判断されるだろう。
これらは,2009年3月31日付で「文部科学大臣」及び「厚生労働大臣」に宛てて,その写しの全てを送付した。上記最後通告をした後,暫しの猶予を与えたにも拘らず,それまでの全ての文書に対して誠意ある回答がなかったからである。
中立的立場
ここ数年,「いじめ自殺」という言葉が目立つようになった。しかし,その本質は理解されていない。何故なら,加害者をハナから特定個人に絞ることによって,責めを負うべきもっと多くの人間が責任逃れをしているからである。
このところ,明らかな「いじめ自殺」とわかる場合であってさえ,被害者が遺書を残さないケースも目立つ。「遺書に加害者らの名を書き残せばいいのに」と思うかもしれない。あるいは,「被害者は心が弱かった」と思うかもしれない。しかし,それは被害に遭ったことのある人間でなければわからない心理である。
多くの場合,被害者は忍耐強い。だからこそ無言で死んでいく。何故「耐える」のかというと,「どこまでもその人を信じたい」と思うからだ。たとえその人に999の仕打ちを受けようとも,あと1の優しさを見出すならば,その1のためにその人を許そうとするのである。ところが,加害者のほうはそこに付け入るのだ。「加害者」の側は,強いのではなく,ただただ卑怯であるだけなのだ。
同じ卑怯さを自らが「中立的立場」にあると思いなしている人間らはもっている。「人権問題」において「中立的立場」はありえない。その場に居合わせる以上,「加害者側」か「被害者側」かの何れかである。自らを「中立的立場にある」と思いなすことを消極的加担という。
何故その様に私が断言できるのかというと,それは私の経験してきたことだからである。
私を他の人間と同様に「甘く」見ないほうがいい。経験が違う。差別したければ差別するがいい。陰口を叩きたければ陰口を叩けばいい。疎んじたければ疎んじればいい。そして,自分の罪状を隠蔽するために躍起になっていればいい。しかし,私が泣き寝入りする,などということはないということも,肝に銘じておいてほしい。
昨年送った内容証明は,もしも私の身に何か起こった場合には,その瞬間に,遺書と成り得る。しかも,文書の性格上,明確な「意思表示」となることだろう。
それに「文部科学省」と「厚生労働省」も責任を免れることはできないことだろう。
「消極的加担」も視野に入れられることだろう。少なくとも,そこら辺の「いじめ死」とは異なる規模の事件にまで発展することだろう。
人権
付け加えれば,昨年夏,学長に直接呼び出され個人的な面談をした。その後,秋に,個人的な電話をした。1分にも満たない電話だった。「後はお任せ下さい」とのことだった。
その後,しばらくして,周りから私が来年度から「文学部」から「教養教育センター」に移籍することになったという「噂」を耳にした。しかし,今に至るまで,学部からも学長からも,その正式な「通知」が来ていないということも事実である。
何よりも,私自身は「移籍」のための「願い書」を提出していないし,今に至るまで「協議」も行われていない。私が学内で文書を提出する場合には,必ず特殊な印鑑で押印するので,それがなければ「偽文書」ということになる。
つまりはこうだ — 私は「願い書」を出していないにも拘らず,そしてまた事前の「協議」もなされていないにも拘らず,私の関知しないところで私の「移籍」が決定された,と。
このことは「事実」である。通常は「人権問題」に発展する類のことだろう。この大学に「人権」などという観念はない。このことも「内容証明」にて証明されたことである。
今の私には,今自らの置かれた状態について,考える余力はない。
旧ウェブ日記2010年3月6日付