白い巨塔
一昨日、即ち18日(木)の午後10時よりフジテレビにおいて『白い巨塔』の最終回が放映された。大手検索サイト Yahoo のエンターテインメントニュース(3月20日(土)12時20分)は「最終回32.1% 伝説の田宮版31.4%超える金字塔」と題し、「社会現象を巻き起こした人気ドラマは記憶にも記録にも残る作品となった。」と報じている。
私も同放送を見ており、また自らその「社会現象」の一部となるべく、今朝になってからDVDを注文した。その所感をここに記そうとも思ったが、DVD等できちんと見直してから纏めて書こうという思いもあって、思いとどまっていた。
このある意味「ヒステリック」な現象は、私の想像を遥に上回るものであったらしく、実際、Yahoo にて「白い巨塔」という語句で検索すると、約90,600件がひっかかる。勿論、これは「サイト数」ではなく「ページ数」ではある。だが、そうではあれ、単純に数字上の事柄でありながらも、この数字が尋常ではないものであるということは明白である。この数字は、更に伸びるであろう。
幼稚園
WEB上でのこの種の氾濫が起こったもので私が記憶するのは、『新世紀エヴァンゲリオン』である。私もこのブームの中で当作品に社会現象として興味をもち、様々なサイトを渡り歩いた経験がある。が、しかし、その全ては自らの全く身勝手な妄想を実に稚拙な言葉で「おらがおらが」とばかりに述べ立てておきながら、自らの解釈の正当性を主張するものばかりであった。いわば、「中学校の教室」で行われるような雑談がWEB上に繰り広げられたわけだ。
今回の場合には、いわゆる子供やアニオタ[=アニメオタク]の枠組みを遥に大きく越えて、この日本全体を巻き込んで同様な「中学校の教室での雑談」が繰り広げられている。驚くなかれ、「この国には大人がいないのか」と思えるほどの稚拙な言葉が飛び交っている。「子供」の学力が低下しているのではない。それ以前にその子供たちを育む責任をもつところの「大人」の思考力が鈍っているのだ。
尤も、ネット上のサイトにのみ限定して、「全ての大人は……」と定言することは単なる論理的誤謬である。しかし、そうであるにせよ、これが明白な「社会現象」である限り、この現象のもつある種の特徴を鮮明に浮かび上がらせていると言えるのではないか。
勝者
筋書きはここでは既知のものとして敢えてここには記さない。またこの場は「私記」ではあれ「論考」ではないのであるから、論点を絞る必要がある。
当然、浪速大学第一外科助教授 財前五郎(唐沢寿明)と同大学第一内科助教授 里見脩二(江口洋介)という重要人物同士の対立的な2つの生き方に焦点はあてられよう。
また、今現在最も社会の注目を集めている社会問題の一つである「医療訴訟」をリアルに描いたという観点からも論じられよう。
こうして、「財前と里見の生き方はどちらが人間として正しいのか?」であるとか「医療現場における閉鎖性をこのまま容認していてもいいのか?」等という街角アンケート調査のようなパターン化された問題群を立て、またお決まりの「おらがおらが」という溜口の叩き合いが始まる。中には、ご丁寧に田宮二郎版との演技の比較を、物語の筋などどうでもいいとばかりに事細かに論評する演劇評論家の様な御仁もいる。もうウンザリだ。
例えば、財前は出世し大学病院に地位を得、里見はその地位を望まず大学病院を出る。しかし、財前は裁判に破れ病魔に倒れる。従って、多くの視聴者はこう判断したようである。即ち、里見は「権力」においては負けたが「人間」としては勝ったのだ、と。
だが、これは誤りである。それどころか妄想ですらありうる。というのも、ドラマでは、何れが勝者であるかは描かれていないのだから。
財前
確かに、財前は裁判に破れ病魔に倒れたことが事実であるにせよ、彼は最後まで「医師として」死んだ。
自らの才能が今後発揮されることがないことを「無念だ」と言い、自らの臓器を「検体として提供」し、自らが自らの癌を「発見できなかったことを悔いた」のである。そして、大学病院という中で「多くの人」に見守られていたはずでありながらも、財前が自らの全てを打ち明けえたのは唯一人、ライバルであり「宿敵」でさえあった里見その人だった。つまり、漫然と眺めるならば「善悪の二元的対立」に見えようこの構図は、財前の「医師としての真実」を里見が代弁しているとさえ考えられるのである。登場人物としての里見その人の意思はどうであれ、その相関関係の中で彼の果たす役割は、「医師としての財前」を受け止め、受け入れ、肯定するところにある。
しかし、ここで単純に疑問と映ろう、「何故に財前は里見によって肯定されねばならなかったのか」ということは。大学病院の地位に固執し、その閉ざされた社会の中で権力を振るおうとし自らの非を決して認めようとはしない、あの「極悪人」が。
だが、この財前の生き方こそ、「地位に固執し、権力を振るおうとし、自らの非を認めようとはしない」というこの生き方こそ、他ならぬ「現実の我々の姿」なのではないだろうか。このとき、登場人物は「医師」である必要はなく、また、舞台は「医療現場」である必要はなく、法的係争も「医療訴訟」である必要はなくなる。「医療」という分野が、我々にとって身近に感じられるだけに、ドラマにひき付ける効果が大きかったという、ただそれだけの理由なのであろう。
罪人(つみびと)
こうして、オープニングテーマの壮大な「オルガンの響き」、エンディングテーマの天国的な『アメージンググレイス』とも呼応して、「我々罪人の救い」の問題へと目が向けられることとなる
我々は心の奥底において里見の様な人格に憧れながら、実際にその様に生きることは決してできない。里見の人格は、我々「罪人」にとって、永遠に仰ぎ見るべき「理想」なのだ。もしも現実に里見のような人格があるとすれば、その人は現にこの日本社会において「偉人」として尊敬を集めている人物であろう。そうであれば、今の自らがその人物とは如何にかけ離れているかを更に具体的に知ることができよう。
我々は自ら「財前」でありながら決してこのことを肯定しようとはしない。むしろ、「財前」が「財前」として勝手気ままに振舞い、その「財前」がこの社会から追放されるに足る人物であることを認めれば認めるほどに、いよいよ「自らとは関係がない」という口実を見つけることが容易くなる。そして、このような卑怯ささえをも隠蔽しようとする。
確かに、我々はこの「財前」が敗訴し病魔に臥すまでは、彼を憎むことが「善」であるかのように思う。しかし、その後、彼が窶れ衰え社会的対面のみを気にする愚かな人間どもの中で哀れな姿を晒すとき、真実を知るために自ら里見に会いに行くとき、そして、里見に「無念」だと打ち明けるときに、我々は「財前」に共感する。最後まで「医師」であろうとする「財前」を受けとめることができる。何故ならば、このとき、「財前であるところの私」は肯定されるからである。こうして我々は「財前」となる。
このことは、登場人物が「医師」である必要はなく、また、舞台が「医療現場」である必要はなく、法的係争も「医療訴訟」である必要はないとするならば、「我々自身が我々自身の社会においてある、そのあり方」を鋭くえぐり出すことになる。今の私は、私が置かれている社会的位置において、「財前」ではなかろうか、と。
哲学
憚りなく言おう、少なくとも、この私が携わっている「哲学」という領域において、真に「里見」である者は、稀である。これを「学術界」全般に広げても大きく変るところはない
それどころか、「財前」以上に陰湿で巧妙で傲慢な人間で溢れかえっているとさえ言えよう。「医師」は直接に「身体」にかかわるから、「誤診」などによって、その醜態が露になり易いというだけのことである。しかし、「魂の医師」たる「哲学者」においては、それを見極めることは遥に容易ではない。
医師が「メス」によって患部を切り開くように、哲学者は「論理」によって問題を切る。だが、その手元が覚束なくなってきているのが、現状なのである。しかし、今はこれについて論ずべき場ではない。
「魂の医師」であったソクラテスは裁判に負け、アテナイの法の下で毒杯を仰いだ。この当時、多くの「財前」に満ち満ちていた。その名を「ソフィスト」という。彼らにとって「真理」などどうでもよいことであり、むしろ自らが「真理」でさえあった。その偽善を暴き立てたソクラテスは、社会から抹殺された。こうして立ち上がったのがその弟子プラトンであった。
その著作『法律』の中で、我々人間を「神々の操り人形」に擬えたのは、他ならぬこのプラトンであった。この世界を劇場に喩えるいわゆる theatrum mundi(世界劇場)の思想は、その後の西欧精神史に多大な影響力を及ぼした。この「世界という劇場」の中において、我々人間が繰り広げる行為[=ドラマ]が如何に「悲劇」と映ろうとも、それは自ら自身の業によるものであり、神々にとっては「喜劇」に過ぎないのだ。そして、この境地において、人は「財前」を嗤うことができない。ただただ肯定する以外にないのである。
「財前である私」は、「里見」を受け入れ、また、「里見」に受け入れてもらえるであろうか。「真理」の対価として「死」を受け入れるソクラテスになれるだろうか。
このことは偏に、「魂の医師」としての私自身の救いの問題である。
旧ウェブ日記2004年3月20日付