ルネサンス思想

SCIENTIA

謄写(コピー)

講義が終わった後,非常勤で来ておられる YO 先生,MS 先生と喫茶をすることになっていた。

一応,確認のために,昼休み時間に教員ラウンジに行ったところ,YO 先生がおられたので,そこで昼食をとりながら少し話をし,3時限の講義終了後にに落ち合うことを再度確認して研究室に戻った。

それで1時間半ほど時間ができたが,その間,文献のコピーを済ませた。

一つは Marin Mersenne の Harmonie Universelle の第3巻(即ち,「楽器」の巻)における「リュート」の項目である。あと一つは,Marsilio Ficino の『ティマイオス注解』である。

フィチーノのほうは,よく確認してみると,確かに ‘IN TIMAEVM COMMENTARIVM’ と記されているので,以前から見付けることのできなかった私の明き盲なのであるが,しかし,これまでこの頁(1438頁)がどうしても目に止まらなかったのだ。

夏季休暇中でなければ目を通すことができないが,何か大変な発見があるのではないかと直感している。

直観

そもそも,学問上の真理というのは,文献を精読したり,精緻な推論をしたりして見出されるものではない。大事なのは,最初の「直観」 — 即ち,ある全体的「ヴィジョン」を見るという意味での — なのだ。「論証」もしくは「実証」は,それについてくるものだ。当の「直観」が「明晰にして判明」である場合には,それは絶対的に「真」であり,「真」であるからこそ「論証」もしくは「実証」が可能なのだ。決してこの逆ではない。

ところが,文献をひたすら読み,既存の事実を拠り所としてひたすらに思考すれば「研究成果」が得られると考えている研究者が,余りに多い。確かにそれは「学問上の成果」であろう。

しかし,その「成果」とやらは,余りにも「痩せ衰えている」ようにしか見えない。もっといえば,「トリヴィアルなことを取り上げてわざわざ晦渋(かいじゅう)に論じる」手合いのものでしかないだろう。「この人が,当の対象をあと10度だけ違う角度で見つづければ,全く違う成果を上げることができたであろうに」と思われることが,余りにしばしばある。

私はキリスト教徒ではないし,キリスト教圏に生活拠点をもってその教育を受けたこともない。しかし,もしもそのような人々よりも少しだけ物が見えるとすれば,それは私が「プラトニスト」だからであろう。

プラトニストにはプラトニストにしかわからない感覚・ものの見方がある。また,ある人がプラトニストだということを,いわば「嗅ぎ取る」ことができる。

この「直観」をもたない人間がいくら西欧思想をやったところで,一生かかっても「真理」には到達できないだろう。そして,「ルネサンス」 — この概念の内包・外延はそれほど明確でもないのではあるが — というものがその後の歴史に作用した大きさを実感することもできないことだろう。


旧ウェブ日記2008年7月9日付

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