社会活動
以前に私の講義を履修していた受講生TI君から誘いを受けていた「横浜国際協力まつり」に足を運んだ。
昨年も同様の誘いを受けて行ってみたが,そのときには明学生の団体が幾つかあり,同様に,私の講義を受講していた他の受講生が参加していた。今年はその団体は参加していないようだった。しかし,誘いを受けたTI君には会うことができて,挨拶もできたから,それでよかった。
学生のうちからこの様な社会活動を積極的にやろうという姿勢には頭の下がる想いだ。少なくとも私は彼らの年齢の頃,自分のことで精一杯であったはずであるから。いや,今でもそうかも知れない。だから今回も知り合いの誘いを受けたという理由以外に,積極的にこの場に足を運ぶ理由はなかっただろう。
それにしても,やたらと物を売りたがるブースがあるのは何故であろうか。私はこの手の社会活動に疎い。「疎い」というのは,その仕組みがわからないということではなく,その「裏」を知らないということだ。
惨めさのイメージ
多分,その多くは慈善 (charity) 活動であろう。だから自らが善意でやっていることを理解してもらおうと活発に活動をするのだろう。そうであるにせよ,やたらと物を売りたがるというのがよくわからない。何等かの資金が必要なのだろうか。
世の中には惨めな境遇にある人間は数多くある。その「惨めさ」を表現するのに,東南アジアを引き合いに出すのは効果的であろう。それは我々が「東南アジアは貧しい」というイメージをもっているからである。
しかし,それ自体が日本中心の発想なのではないであろうか。そして,国内の悲惨については手を貸さず,国外の悲惨については積極的に手を差し伸べねばならないような風潮は,どこから生じてきたのであろうか。
例えば,阪神・淡路大震災の被災者の中には,未だ自らの家をもつことのできない方がおられるという。あるいは交通事故や殺人事件などで遺児となった者達の中には,幾ら学力があっても,到底,大学の学費を支払う能力がない者もある。あるいは親族や自分自らが重い症例を引きずりながら,社会保障の対象外とされたような者達は,苦労の末に得た収入の殆ど全てを医療費にまわすしかない。ここから介護疲れによる心中事件なども生じうるわけである。
国内だけでも救われない事例などは山ほどある。
懐疑
それで「国外に協力する理由は」と訊かれれば,おそらく「たまたまこれに出会ったから」と答える以外にないのではないだろうか。
とすれば,私が,誘われて,そういう活動の一端を触れに行ったことも,それから先に進んで,自らがその様な活動に参加しないことも,「たまたまであってさえ出会わなかったから」と答えるしかないのだろう。
リメイク版『白い巨塔』の里見を真似る訳ではないが,私は,割り切ることによってではなく,悩み続けることによって,自らの善行を施していくことであろう。
それこそが真の「懐疑(=探求 skepsis)主義者」のあり方であるように思う。
旧ウェブ日記2004年10月17日付