理解されないこと

PRIVATÆ

手紙

そういえば,私が直接面識のない方から大学の住所宛に手紙を頂いた。ここでご本人を特定できるような書き方はできないが,先方は私のことをご存知だとのことである。とはいっても,お互いに直接の面識があるわけではない。

このサイトに行き当たり,このウェブ日記もお読みになっておられるとのことだった。私からすれば余り嬉しいことではない。こんなものを読んで愉快になる人はそうはいないだろう。むしろ不愉快になるのが普通だろう。

しかし,その方は善意で励ましの言葉を下さった。親しい間柄でもない限り,そして仕事上の内容でもない事柄について,相手に初めて手紙を書くのは勇気のいることだろう。すぐにでもお返事を差し上げるべきなのだろうが,その時間がとれるのはいつになるのかわからない。

身勝手なことだとはわかっているが,もしもこれをご覧になっておられるならば,ご理解頂ければと思う。ただ,そのご厚意には感謝している。

群れる

私は人から暖かく受け入れられることに慣れていない。そのことに関係するのかどうかはわからないが,「つるむ」とか「群れる」とかいう類のことを,私は嫌悪する。だから,本当は学生のサークル活動によくありがちな甘えた人間関係など,吐き気がする。音楽サークルの集まりなど,最低な部類だとしか思えない。

しかし,この世の中は不思議なもので,そういう私の性格を,直接会ったり,このウェブ日記を読んで知っていても,気にせず何かの活動 — それは思想的なことであれ音楽に関することであれ — に誘ってくれる人たちがいる。そういう人たちは真剣に生きている人たちだ。

そうではない人々とは,結局はうまくいかない。大抵の場合,最後は必ず私を避けようとする。何故ならば,その手の人たちは,根本的なところで「自意識過剰」だからだ。自分の「自己肥大」のために相手を利用するだけだからだ。

その手の人たちの他の人たちに対する接し方,考え方,そして — その人が音楽関係の人間であるならば — 音楽表現までもが,全て「自己肥大」のためなのだ。その手の輩に「哲学」や「音楽」など理解できようもないだろう。まして,私の人生など理解を越えたものにならざるをえない。

結局は自分のため

そういう輩というのは,例えば,「人間の命の尊さ」を口にするときには,決まって「自分の命の尊さ」しか考えていないのだ。「自分が」大切にされたいからこそ,「人間が」などという心にも思っていないことを言い出すわけだ。そんな輩にはキリがないほど出会ってきた。問い詰めれば,最後は「自分」なのだ。

だから「他者のために」というのは,最後は「自己欺瞞」であり「偽善」でしかない。今の私にははっきりと言える。それはこれまでの体験から受けてきた無数の心の傷が実証するところだ。

「哲学」が,「音楽」が,人のためになったことなど,歴史的に皆無だ。結局は全て「自己肥大」の手段でしかない。

もしもそれらの活動に偉大なものがあるとすれば,それは「人に対して」ではなく,ただ「神に対して」捧げられたもののみだ。しかしそれらは,人の手に渡ったそのときに,どうしようもないほど汚れたものと成り果てる。

その極めつけは,「自分に対して」という意味で「神に対して」という言葉を使う大馬鹿者である。

苦悩

励ましの言葉を頂きながら,何という態度だと,人は私を責めるかもしれない。しかし,私にとって,励ましは — そして,慰めも — より一層深い苦悩の原因にしかならない。

私にとって「幸福」とは,「憤りを抑え平常でいられる状態」を意味する — これは人には決してわからない。私にとって,私の「生」には意味はないからだ。


旧ウェブ日記2010年5月25日付

タイトルとURLをコピーしました