生協理事会
生協理事会があったので,横浜校舎の講義を終えた後,すぐに白金校舎に向かった。
今回からテレビ会議によって,横浜校舎と白金校舎で同時に開催することになったので,私も横浜校舎のほうが楽だったのだが,卓球部の学生に会わなければならない用事があったので,白金校舎に行かざるをえなかった。それで白金校舎で参加することにした。
人数としては,やはり横浜校舎で講義がある学生理事のほうが多いようだ。
こういう通信機器を使うとなると,大体,最初はトラブルが生ずるものである。しかし,今回は初めてではあったが,支障なくほぼ時間通りに開催することができた。
合理化
こうした機器のお陰で,以前のように定足数に満たずに人を探しに行くなどという必要がなくなってくる。移動の交通費なども節減できるだろう。
機器の数も限定されているので,全ての会議をテレビ会議にするというのは,現在のところは不可能であるが,将来的には全学的に取り組むべき課題だと思う。このようなテレビ会議システムが日常的になり,講義にも使えるようにすれば,学生も教員も移動のための労力も費用も必要ではなくなるだろう。
もちろんその場合,facie ad faciem にとはいかなくなるが,ゼミ以外の講義では,学生の目的は殆ど「単位稼ぎ」でしかないのだから,教授する側と教授される側との双方がそれ以上の努力をする必要もないだろう。また,当然のように,講義の仕方もメディアを駆使したものになるだろう。
無知蒙昧
今の日本の大学経営者側の考え方というのは,大学というのは「学問を修める」ところではなく,「資格をとる」ところであるのだから,高度な教育 — 全人的な教養教育 — など必要とはされていないし,その必要性を説けば,ともすれば気違い扱いされる羽目に陥る。
しかも,「リベラル・アーツ」を口にしながら,その伝統的体系も知らない輩 — 驚くべきことに,かつてその学科の数は7であったということも知らないらしい — が幅をきかせているわけだから,多勢に無勢というところだろう。
それでも一般的に言えることは,この様な世相だからこそ,「賢い者は益々賢くなり,愚かな者は益々愚かになる」のではないか。
かつて教養教育(リベラル・アーツ)というのは特権階級的なものであった。現在は自らの自由によってその特権階級に相応しい教育を選んで学ぶことができる時代である。
奴隷となる人間は,自ら好んで奴隷となるだけのことである。
旧ウェブ日記2008年6月24日付