受領式(寄贈式)
日本を代表するデカルト研究者である 所雄章 先生(中央大学名誉教授)が,その蔵書の殆ど全てを慶應義塾大学に寄贈された1。おそらくは世界でも類稀な『デカルト文庫』となろう。
この日その受領式(寄贈式)が慶應義塾大学で行われ,私もそこに参席させて頂いた。私も「研究」などとは程遠い生活を余儀なくされてきたので,学術関係の場に参加するのは久しぶりである。
先月の何時だっただろうか,たまたま電話に出たところ,所先生で,心臓が止まるかと思うほど驚いた。余程のことでもない限り,所先生から直接的に電話を頂くなどということはないからだ。用件は,この式に出てもらう予定なので,空けておいてほしいというものだった。
デカルト関係の研究者は他にも多数いるのだが,諸般の事情があり,数名に絞ったということだった。実際,今日出席したデカルト研究者は私を含めて4名だった。
私も今の状態でこんな厳粛な場にのこのこ行っていいものかどうか迷わなかったわけではないが,所先生の考えもあるだろうし,今私が置かれている状況を説明するには難しく,また,話が複雑になることが予想されたので,今の自らが可能である唯一の学術活動であると考えて,参加させて頂くことにした。
大学側挨拶
うちの大学では,こんな学術的・文化的な式は執り行われることはないだろう。
第一,これまで「教父研究会」・「新プラトン主義教会」・「中世哲学会」が本学で開催されたのではあるが,その全てに対して,大学側からの援助はなく,更には,学長・学部長も挨拶に来るなどせず,学会事務局の方で対処した。
勿論,私はその度に裏方として働き,自分の研究により直接する活動が日程的に重なり,そちらを犠牲にせざるをえなかった。
それで,学長とか学部長の挨拶なんていうものは,「哲学」とは専門領域が異なる分野の研究者だし,さぞかし軽薄で退屈な駄弁が続くのかと思っていたのだが,慶応大の塾長(学長)や学部長の挨拶は実に見事で,一々共感できるものだった。
これこそ「教養」であるし,「大学」だと思わされた。如何に自分が不遇な環境の中に置かれているのかという事実が実証できたように思われた。
研究者
さて,研究者が集まると,必然的に,今自分がやっている研究内容についての情報交換が始まる。私の場合,実際に何もやっていないわけだから,そうした遣り取りが苦痛になるわけだ。
本当に他の方々は,研究会や翻訳作業に熱心に参加していて,「研究者」としての生活をきちんとしている。現在,「デカルト書簡」の全訳を出版する計画が進んでいるということだ。
私は研究者としての人生はもう終わってしまっているが,知己が精力的に活動しているのを知って,精神的な力を得られたと思う。
旧ウェブ日記2011年6月14日付
注
- 「中世哲学会から,会長であられる 中川純夫 先生が亡くなったとの連絡が来ていた。61歳であったとのこと。日本におけるアウグスティヌスの代表的研究者であったが,年齢的に,まだまだやり残したことはあったのではないかと思われる。私が中川先生と最後にお会いしたのは,2008年に本学横浜校舎で開催した中世哲学会の大会開始前日の準備後の打ち上げのときだった。デカルト研究者である所雄章先生の蔵書のことで少し話をしたことを覚えている。それ以外は余り記憶にない。そのときはお元気だった。むしろ私のほうが不健康だったろう。今回突然お亡くなりになった理由については,何も知らされていない。余りにも唐突で,少し驚いている。」(旧ウェブ日記2010年4月28日付より)