ミーティング
1月末にTK氏から打診を受けていた共著のミーティングがあり,原宿まで赴いた。
最初にその件のメールがきたときには酷く体調が悪く,精密検査を受けるために大学病院を探したり,そのときの症状について調べたりなど重なって,なかなか他のことに気がまわらなかった。それから2ヵ月経って,やっと返答することができるようになった。
まだ無理できる体調ではないのだが,こういう研究者同士の交流を通じて,自分自身の思索を深めていくことも必要だと思い,出かけることにした。
改札で
待ち合わせ場所は原宿の表参道口だったが,何故か酷い混みようだった。何かイヴェントでもあったのだろうか。改札を出ようとしても,なかなか前に進むことができないような状況で,このまま他の人に会うことができるのかどうか心配だった。
というのも,私はTK氏しか知らないから,彼が遅れてくれば,他の人々と行き違いになるおそれもあったから。しかし,やっとの思いで入口を出て,そこで待っていると,若い律義そうな二三人の若者が会話をしているのを耳にし,その内容から今日落ち合うことになっていた人々だろうと推測した。
「もしかしてK氏から話があった云々」と話しかけてみると,そうだということで,ひとまず安心した。直後にそのKM氏が来て,ちょっと可笑しかった。
企画
共著というのは,哲学畑と文学畑の若手研究者が集まって,それぞれの研究対象である思想家・作家等の人間観を纏め,それを合わせて一冊の本にしようという企画だ。その手の論文集のようなものは幾つもあるが,この企画の面白いところは,哲学と文学という分野がリンクするということだ。
それで面白くなるかどうかはわからないし,私も最初この話をKM氏から受けたときに,余り乗り気ではなく,KM氏を信頼して,少し考えてみると曖昧な返事をしておいたに過ぎない。
それでも,どういう人達が集まるのか興味もあり,一度会うことにしたわけだ。しかし,集まって,今回の企画の内容をより詳しく聞き,更に,そこでいろいろな意見が取り交わされるのをみると,とても面白いと思うようになった。
得てして哲学研究者は概念に拘るのに対して,文学研究者は言葉の表現に拘る。勿論,文学研究者が真理を問題にしていないわけではない。それどころか,KM氏は,むしろ,いろいろな事柄に関して哲学・形而上学の重要性をよく理解しているほどだ。彼の博識ぶりと饒舌さには私も一目置いている。
また,氏は仏文学が専門だが,文学におけるもう一人の中心的人物であるKS氏は日本文学が専門で,西洋哲学,西洋文学,日本文学が一堂にに会するというハチャメチャな企画であるところが,殊の他気に入っている。
統一性?
学問というのはその基礎的方法論が精密でなければならないことは言わずもがななことではあるが,しかしそれでも,面白くなければならないだろう。
そもそも今回のこの企画は,共著ではあれ共同研究ではない。
確かに書物としてのある統一性を持たせなければならないかもしれないが,極端なことを言えば,その判断は読者の感性に委ねてもいいのではなかろうか。第一,どれほど精密な考証を重ねた研究書を書いたとしても,得てして読み手というのは,その論証を度外視し,自らの感性で判断するものである。
だからこそ,現代日本には哲学が無用であるような風潮が蔓延しているのだ。ならば,最初からその感性に一切を委ねてしまうほうが潔いのではないだろうか。
久しぶりに面白い集まりに参加できた。そのことに感謝しよう。
旧ウェブ日記2007年4月8日付