古典古代
教父研究会に参加した。私は正会員ではないのだが,10月の研究会でメルセンヌについて発表させて頂くことになったので,その事前の打ち合わせも兼ねて,様子を伺いにいったわけだ。
しかし,打ち上げの喫茶での歓談でも思うのだが,同じ近代思想研究の人間に話すよりも,遥に話が通じるのは何故なのだろうか。
やはり古典古代には近代科学におけるような実証科学の方法はなかったにせよ,いわゆる自由学芸(artes liberales) における論理学や数学的論証などは当然の如く前提されているし,更に,教父研究ともなるとギリシア語・ラテン語・ヘブライ語等々の諸言語に基づく文献学的厳密性も要求される。
それに対して,近代思想研究の人間というのは,いわゆる「文学研究」 — しかも日本における特殊なそれ — の延長で来ているところがあるから,論理学も数学的論証も文献学的実証もいい加減なことが多い。
ところが,そのいい加減な作業の蓋然的結果を今度は確実なものとして勝手に思い込み,その思い込みの中で更に推論(しかも誤謬推論)をしていくのだから,殆ど使い物にならないようなものになる。
近代研究においては,基本的に数学・論理学をきちんと理解できるか,理解しようと努力しないような研究態度をもった人間は,最も基本的なところで誤謬推論をおかしていることが多いので,余り相手にしたくはない。
それはそうと,私自身の研究発表のことに専念しなければならないだろう。
私のほうは教父学については全くの門外漢なのであるし,教父学の専門研究者の前で17世紀の問題を論ずるとなると,かなり工夫が必要になってくる。この夏はまた大きな冒険を一つすることになりそうだ。
Harmonie Universelle
そういえば,昨日,メルセンヌの Traité de l’harmonie universelle が届いた。
1636〜7年に出版された大部な3巻本の Harmonie universelle という著作とは別のもので,1627年に — ということは,デカルトが丁度かの「普遍数学 Mathesis universalis」の構想を提唱した『規則論 Reglæ ad directionem ingenii 』 を執筆していた頃に — 出版されている。
Fayard から出されているので,手に入れようと思えばいつでも手に入ったのであるが,さして重要な文献にも思えなかったので,これまで遂に買おうという気にならなかった。しかし,どうしてこれを購入しようと思ったのかと言えば,これをこれまで真剣に読まなかったことが誤算であったことに気付いたからである。
私がこれから取り組もうと思っている問題は,というよりこれまでずっと引っかかってきてうまく整理できなかった問題は,この書物を介して,これまでよりもずっと上手く整理することができるということに気付いたからである。
ここに現れる “harmonie” というフランス語は,言うまでもなくラテン語 “harmonia” の訳語であるが,従って — もちろん,「和声」(ハーモニー)ではなく — 「音階」を意味する。しかも,ピュタゴラス派の伝説以来この17世紀にまで伝わる「音階論的数的秩序」に関わるあらゆる情報が網羅されている。
ということは,逆に,ここに記された内容の全ては,「ハルモニア」に関わる思想の信用に値するマップとして使用することができるのだ。
丁度,試みに今年度から始められた「数理思想」の講義でも用いている様々な資料に現れる断片的な情報は,全て,この一冊の書物に凝縮し,逆に,ここから発散すると言っても過言ではない。そればかりか,17世紀における複雑な「旋法論」,「音律論」の問題も一気に整理できる。
私にとっては,「ハルモニア」に関して学び直すための良い教科書のようなものである。
今までこの書物の中に書かれている事象の連関を証明するために時間を浪費してきたようなものである。だがしかし,これまでの徒労とも思える作業を介さねば,この1冊の書物の重みは決して理解できなかったに違いない。研究生活を始めて,これほどワクワクする心境になったのは,初めてであるかもしれない。この1冊の書物を通じて,それぐらい様々な事柄が1点に集約してきている。
“Der liebe Gott steckt im Detail” という文言は現実のものになろうとしている。
旧ウェブ日記2008年6月21日付