容疑者Xの献身

PRIVATÆ

映画

気分転換に,久しぶりに映画でも見に出かけることにした。

TV版『ガリレオ』の続編くらいに考えていたのだが,むしろ変人ガリレオ湯川教授は,天才数学者石神を引き立てるために,脇役に徹しているという感じだった。石神を演じていたのは,昨年末に見た『魍魎の匣』で中禅寺秋彦役だった堤真一だが,私としては,この作品ではどんな演技を見せるのかに,むしろ興味があった。

小説が映画化されると,決まって,原作に比較してどこがどう違うという批評が出るものであるが,そういうことは非常につまらないと思う。そもそも「作品そのもの」などという普遍的イデアがあるわけではない。原作そのものも読者によって捉え方が異なる。

せいぜい言えることは,一般的な人間であればこう捉えるという程度の極めて弱い普遍性があるに過ぎない。映画は映画として独立したものとして考えればいいだけの話だ。そして,それにはそれに対する鑑賞者個々人の捉え方があるだろう。

数学的プラトニズム

率直に言って,非常に考えさせられる内容だった。そこで,帰宅してから,その「一般的な人間」がどのようにこれを評するのか,ネットで調べてみた。

予想通り,肯定的にも否定的にも評価されていたが,おそらくはその全ては,石神が数学の天才であることの意味を見落としていると思われる。

例えば,既に数学界においては解決済みの四色問題に石神が拘る設定になっているのは,明らかに隣室の住人同士の人生が塗り分けられねばならないという隠蔽工作と関係する(それを暗示する台詞がある)。そして,石神は解決済みの方法について「美しくない」と評していた。

すなわち,「真理は美でなければならない」という数学的プラトニズムの感覚を持ち得ない人間には,この物語の結末は,永遠に納得のいかないものとなろう。

正当防衛から偶発的に犯してしまった母子の罪を完全に負うためには,単なる隠蔽工作によって協力するという類では不完全である。単なる同情ではなく,自らが真に犯罪者となることによって,もう一つの犯罪を「塗り込め」,人生を掏り替えること,そのことが必要だった。才能をもちながらも家庭の事情で,しがない高校教員として生きるしかなかった石神にとって,おそらく,自らの生は無価値だっただろう。

それは,社会が自らの才能を受け入れなかったからという思いも強かったかもしれないが,それと共に,数学的な完全な美の世界に比べれば,この世界には生きる意味がないと考えていたのかもしれない。自らの人生に失望すると共に,この世は所詮醜いものであると,自らに思わせることでしか生き続けることができなかったのだろう。石神には生に対する執着はなかった。自殺を思い立ったのは,深い理由はないだろう。しかし,必然的な結論だったに違いない。そこに,新たに隣人として入居してきた母娘が挨拶しに来る。

そのとき,自らには決して生きることのできなかった他の人生を,少しの間でもよいから,見続けようと思い立ったに違いない。そのときから,ただそのことだけが,石神の幸福であり続けた。その隣人の平穏な生活が失われようとしたとき,石神には,自らの醜い人生を,価値ある人生のために引き渡す覚悟は,既に準備されていただろう。この完全なる献身は,自らの絶望的な人生を価値あるものとするための,唯一つの救いだったに違いない。

この行為が単なる自虐的なものと映るのは,その様に評する者が数学的プラトニズムの感性をもったことがないからである。

美と真

この理不尽な事態を,湯川はいつもの推理によって救うことはできなかった。一つは,湯川は,如何に「変人」と渾名されようと,社会的成功者であるからであろう。

しかし,別な見方をすれば,湯川が実証主義者であるのに対し,石神はプラトニストである。「実証」は「美」に対して,余りにも無力であった(だから石神にとって「証明」は「証明」だけで終わるのではなく,「美しく」なければならない)。映像上,石神が湯川に対して殺意とも見紛う敵意をもった視線を注ぐのも(例えば,登山シーン),才能を認めながらも「美学」が理解されないことに対する憤りからであったろう。

石神を最後まで説得できなかった湯川は「その才能をそんなことのために…」と嘆くが,最後に花岡靖子が泣き崩れながら叫ぶ「私なんかのために…」という言葉は,意味は同等でも,重さが全く異なる。

靖子は,おそらく湯川に,石神のもつ数学的天才について初めて教えられたのであろう — 家の事情から研究者としての道を閉ざされ,そうでありながらも孤独に研究を続けてきたこと,そして,その才能は当然にして世に認められてしかるべきであること。靖子にとっては,その驚くべき才能の持ち主が自らの罪を負い,それに対して全くの見返りを求めないことに耐えられなかったのだろう。

別に靖子ではなくとも,生身の人間であるならば,その様な純粋な愛を受け留めることに決して耐えられはしないだろう。石神の誤算はただこの一点にあったと言えよう。

希望と現実

そういえば,この私自身も,その昔は思想研究の専門家になれるなどとは思っていなかった。そもそも,私は学部時代は理系の学生で数学を専攻していた。長い間,中途で退学しようと思っていたが,紆余曲折して思想研究を目指すことにした。

とはいっても,学部を卒業した後,就職のあてもなかったときに偶然,県下の底辺校での非常勤講師の口があり,そこと学習塾とで数学を教えた。その頃は生活するのも大変で,共同風呂がついた安普請のアパートに住み,冬は暖房器具も買えずに,押入れの中で毛布に包まって暖をとった。

自らの将来に不安を抱きながらも,同時に,未来への根拠のない希望に満ちていた。そして,いろいろな人に出会い,いろいろな体験をした。今日の映画を見ながら,自らのそんな昔の生活を懐かしく思い起こしていた。

映画の本筋とは別ではあるが,今の日本には,相当の才能をもちながらも,そして立派な業績を修めて学位を取得しながらも,就職できず,非常勤講師のあてすらもなく,進学予備校や学習塾に勤めたり,それどころか,あるいは一般の飲食業界で働き,あるいはタクシードライバーを営みながら,個人的に研究を続けているような研究者に溢れている。

スクリーンに映る石神の人生を眺めながら,その様な現実の人生を負わされた才能ある人々の幸福を祈っていた。


旧ウェブ日記2008年10月20日付

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