馬鹿げた議論
学科会議があり白金校舎に赴いた。結構温かい気候だったので,日中は薄着でもいいくらいだった。
帰りはちょっと遅くなった。デリケートな案件のためだ。しかし,その話合いというのは実につまらないことに費やされた。
余りに馬鹿げていたので,私も口を挿まないようにしていたのであるが,最後に「一言ないか」と振られたので,もう少しで「馬鹿げている」と言いそうになったが,とにかく早く終えてほしかったので,当たり障りないことを適当に言っておいた。
方法論
そもそも学的方法論の異なるもの同士が批判し合うのだから,意味がないだろう。
これと全く同じ状況というのは,丁度,旧約聖書の神学的解釈について,キリスト教神学者にユダヤ教のラビ達が噛みつくような場合である。方法論が全く異なるにも関わらず,「そうは思わない」と言っているだけなのだから,収拾がつかなくなること必至である。
第一,当の案件にとって,その話は本質的でも何でもないことなのだ。それが「研究上の問題」だというのであるならば,私に言わせれば,「全く学的原理のない戯言」にしか見えない。無駄な話をすることによって,自分らの学的根拠が無いことを,却って自ら明らかにしているだけだ。
もしも徹底してこの議論をするというのであれば,これまで私が紀要や論文でしばしば行ったように,批判の対象となる論者の「方法論」が「端的に誤り」であることを示せばよい。
哲学的に問題があるのならば「論理的矛盾」を,文献学的に問題があるのならば「文献的事例」を示せばいいだけのことである。
「俺はそう思わない」だとか,「何でそんなまわりくどいことするのか」とか言っている人間の知性の低さには驚くべきものがある。少なくとも学術研究機関にいる人間が恥ずかしくもなく言うことではない。
間接証明
間接証明の発明故に,ギリシア人の学問が,殊にアリストテレス以来の学的原理が,その後の人類史における学的伝統を形成し続けてきたということは,学問に携わる者にとっていわば前提なのではないだろうか。そして,「当たり前」であった物性理論,論理学,数学等々の諸原理・諸概念が,まさに間接証明によって,その根本的全面的な見直しがなされたのが20世紀である。
第一,現代の学術研究者が誰でも知らねばならない現代論理学の基礎知識を些かでももっているならば,当たり前などど,簡単に言いうるものではない。「当たり前」という言葉を研究者たる者が言いうるのは,「証明」が済んだものに対してのみである1。
古典主義と科学主義
しかし,同時に,SK先生の様に,古典的伝統を守ろうとする態度も,また一つの正統な学的態度であると私は思う。20世紀に台頭した頑強な科学主義に媚びるくらいであるならば,古典的な自由学芸の伝統に立ち返るべきであると思う。殊に人文科学にとっては,それこそが学的原理であろう。
「科学主義」と「古典主義」というのは,いわば現代における学問の2大原理である。しかし,私はそのどちらにも阿(おもね)る気にはなれない。
というよりも,これらに対してどういう態度をとるのかということを,特に人文科学研究者は問われているのであって,これに対して方法論的に無反省であるなどということは考えられない。
別言すれば,方法論において,単なるイズムに安住することは,自らの実存を売り渡すという自殺行為である。このことに気づき,徹底して自らの方法論に拘るからこそ,SK先生の研究は生きた学問なのだと思う。それが単なる講釈師の似非学問と全く異なるところである。
この単純な真理が前提されない人々と真面目に学問的に付き合えるとは到底思えない。
旧ウェブ日記2006年1月14日付