Discrimination

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体不調

昨日から全身の倦怠感が増し,眩暈がする。過去のことを思い出そうとすると,よく体調が崩れる。

しかし,それでも,今日もここに記そう。昨日述べた内容証明に記した内容の若干である。

差別的待遇

私は2002年度に文学部フランス文学科に移籍することになったが,それ以来,学科のほうでは「同僚」としての扱いを受けたことはない。

それを象徴するのは,最初の顔合わせの食事会である。そのとき私は長テーブルの末席(端)に座らされ,学科の人間には全く話しかけられることもなかった。勿論,自己紹介などの時間も一切設けられなかった。

歓迎会ではなく,わざわざ人を不愉快にするのが狙いなのだから。

研究室

私の「研究室」は横浜校舎にあるが,「研究室がある校地」が本務校地と定められているため,白金校舎は私の「本務校地」ではない。一方,フランス文学科の教員は「白金校舎」に研究室をもっている。

私は「同僚」ではないのだから,学科側には,当然,私の「研究室」を白金校舎に移動するなどという考えはない。この「物理的制約」があることを承知の上で,学科側は故意に対等性・平等性を強調し,私を排除しようとし続けてきた。

たとえば,私の「メールボックス」は,一時期,白金校舎の「フランス文学科共同研究室」と白金校舎の「教養教育センター」と横浜校舎の「教養教育センター」の3箇所に存在していた。通知もそれぞれにバラバラに入り,必ず行き違いが生じる。

そこで,早い時期から「学科のメールボックスを廃止して,横浜校舎へ転送してほしい」という要望を出していたのであるが,学科ではこれをわざと残し続け,しかも,通知をわざわざその学科のメールボックスに投函し放置するという嫌がらせをし続けた。

加重負担

更なる嫌がらせは委員会等の加重負担であった。

私は,2002年度から2003年度にかけて「情報センター長補佐」という学長命による役職を務めることとなった。これは最初,「他の委員会との兼任はない」ということを確認した上で引き受けたものである。ところが,この事情を当時の学科主任に話したところ,上記の通り,物理的制約を全く無視した平等性を理由に,委員会等の兼任を強いられることとなった。

このときの激務については当サイトの prooemium にも記した通りであるが,それに加えて,「教授会書記」まで命じられた。

こうして「本務校地」ではない校地への頻繁なる出校を強いられ,また,本来的に「本務校地」でなすべき業務は妨害され続け,当然の如く,自宅での徹夜残業を余儀なくされる日々が続いた。必然的に,私の体調は日ごとに悪化していった。こうした体不調について訴えても,学科では改善することをせず放置し続けた。

2004年の1月末,ついに心因性ストレスによる病状の最初の兆候が現れた。この年の3月末日で「情報センター長補佐」の役職は解かれるが,体調は悪化する一方であり,同年6月上旬に入院することとなった。「高熱」と「腹痛」によって,夜間緊急外来で応急処置を施されたものの,翌日に再発し,入院することにしたものだ。

原因はわからないのであるが,軽い敗血症を起こしかけていたためである。応急処置が遅れていたならば,命を落としていただろう。心因性ストレスと過労が影響しているということだった。

この入院以来,原因不明の症状が様々に続き,その都度回復には向かうものの,今に至るまで,それ以前の健康状態には戻っていない。

私は2004年度を迎えると同時に,健康を失った。それから数年の間,出校日以外は,殆ど一日寝て過ごすこととなった。

そればかりではない,歯科にかかった際,歯軋りによる歯の摩耗を指摘された。異常なストレスが原因なのだという。それ以来,就寝時にはマウスピースをして寝るようになった。最低でも1年に1度は交換しなければダメだ。噛み切ってしまうからである。

ゼミ担当

当サイトは2004年度に開設したのであるが,このような就労環境における心因性ストレスによって「殺されるかもしれない」という危機感があり,記録を残すことが必要であると感じたからである。だから,ハナから学術的情報の公開を断念しているのである。

実際,「内容証明」を書き上げるにあたって,この「日記」は,大いに役立ったのである。私の勘は正しかったのだ。

このような委員会等の加重負担はあるにもかかわらず,学科科目からは締め出された。2006年1月7日付で記した通り,私は学科ゼミ担当から外されており,フランス文学科に移籍してから今日に至るまで,フランス文学科の学生を指導したことはない。事実上,学科の学生との関係は,一切もたないのである。

また,2004年10月13日付で記した通り,本来,学部において責任をもたねばならない非常勤教員の世話を引き受けている。学部教授会の決議内容は意味をなさないのである。

PC 環境

本学に就任して以来,満足のいく研究室環境は与えられなかった。

特に,PC環境については,2004年10月13日付で記した通り,本来学部予算から負担されるべきものであるにも拘らず,私には一切配慮がなかった。もしも,学部あるいは学科から多少なりともその補助が出されていたならば,ずっと苦しみ続けてきたマシントラブルも,早期に解決できたはずである。当サイトのウェブ日記が記され始めた2004年末からマシンに関する記載が多くなるのは,この理由のためである。

限られた経済の中で,度々システムクラッシュを引き起こすマシンを使える環境にするためには,血の滲むような努力が必要とされた。私が本学に移った頃はまだ外付けHDDも高価であり,バックアップもとれない状態だった。新たにPCを購入する金銭的余裕もなかった。だから,他にやりようがなかった。

案の定,そのままシステムクラッシュを引き起こし,本学就任以前のファイルは殆ど全て失われることとなった。それを大学で話したところ,私の置かれていた悲惨な環境を心配するどころか,私の管理方法が悪いと嘲笑した教員がいた。この大学の程度は,そんなもんである。

今私が有しているシステムトラブルに対するあらゆる対処方法を身に付けた背景に,このような血を見るような体験がある。その後,幾人かの人々のシステムをボランティアで診たことがあったが,私が徹底的に将来訪れるであろうトラブルを予測しそれに対する対処を施すのは,この同じ体験をしてほしくないからである。

言いたいことは一つだ — 過去の私を救えるのは,今の私だけだ。誰も何もしてはくれなかった。

人事差別

2003年度の昇任人事のことで。詳細は省く。一つだけ記そう。

私が2002年に出版した『デカルトにおける〈比例〉思想の研究』であるが,哲学・思想系で初めて「課程博士」を取得し,日本学術振興会科学研究費補助金を受け,一般の書店から発行されたものでありながら,学科内でケチがついた。学科の判断では「研究業績」ではないらしいのである。

最終的には認められたものの。

これに関連して,2002年にこの書が出版された際,白金校舎の生協書籍部に一定期間置いてもらえないかどうか訊いてみたところ,スペースがないから置けないということだった。経済学の教員のつまらない本は陳列しているのにである。

この大学に「学術」という観念はないのである。

試しに,researchmap によって,自称研究者らの業績を調べるがよい。ある教員は,「研究業績」は「個人情報」であるために公開できないと言って憚らない。つまり,公開もできないものを「学術業績」と騙っている人間がどれほどいるかがわかるだろう。

今後のために

今こうしてこれを記している間も,体調は思わしくない。倦怠感が酷いのであるが,心因性のものである。頭重もある。これまで受けてきた数々の苦痛を直視すること自体,私にストレスを与える。

だから,上記の内容も精確に記したわけではない。それでも記さねばならなかった。そうするのがよいと,予感するからである。

邪推し,曲解する性癖のある人間には,そうさせておけばよい。心ある人間によって読まれればそれでいい。

現時点での私が記すことができるのは,これが手一杯だ。


旧ウェブ日記2010年3月7日付

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