Für Elise

MUSICA

バッハ父子

不思議なことなのであるが,バロック時代を代表する「無伴奏フルート」1のための作品は,テレマンの《12のファンタジー》を除けば,バッハ父子の2曲(BWV 1013, H.562/Wq.132)のみである。

しかも,バッハ父子は,それぞれ唯1曲のみを残しながら,それらは殆ど「フルート作品の最高傑作」と言ってもよいほどである。おそらく,それほどまでにフルート1本のみのために作曲することは至難を極めるということなのだろう。そして,それ以外では有り得ない仕方で,音楽を凝縮してそれぞれの作品を作り上げた。だから,バッハ父子にとって,もう1曲は有り得なかったのであろう。

a-Moll(イ短調)

だとすれば,その1曲のために選ばれた調性には何らかの意味があるだろう。

嘗て音楽作品は象徴的な意味を担わされていた。少なくとも,17世紀から19世紀半ばにかけての音楽作品はそうである。その間,音楽に意味を担わせるための音楽語法は共有されていたのであり,その後,急速にすたれた。大衆音楽が成立するようになったからである。そもそも,大衆音楽として成立したものの中に深い意味を見出すことはナンセンスである。これについては,ここにこれ以上は記さない。

それでは a-Moll に負わされた「調性格」というのは何なのだろうか?

私には核心的なことを言うことはできない。ただ,例えば,《マタイ受難曲》BWV 244 に繰り替えして用いられるコラール 〈O Haupt voll Blut und Wunden〉 は,それが現れる度に移調され,やがてこの a-Moll に収斂する。

私にはこれは犠牲の血を象徴する様に思われる。少なくとも,J.S.バッハの無伴奏フルートはその路線だろう。

一方,C.P.E.バッハのほうであるが,一種の弔いの音楽であるだろう。吹いていて,いつもイエスの十字架の光景が浮かんでくる。私には,父バッハの無伴奏をエマヌエルが独自に捉え直したものであるように思えてならない。そして,秘められた情熱をもったエマヌエルの無伴奏を,一層,私は愛している。

(これらバッハ父子の無伴奏フルート曲については,またいつか再考してみたい。)

Für Elise

話はまた飛ぶ。次は,ポゴレリチ奏するベートホーフェン〈エリーゼのために Für Elise〉の動画(音質は酷く悪い)。

この演奏,ポゴレリチにしては驚く程に何もしていない。全く面白くないほどに普通である。これでは解釈もへったくれもないのではなかろうか?

実は,この曲,初級者には不可能なテクニックが要求される。それはモダンピアノにおけるペダリングのテクニックだ。この曲をペダルによる濁りのない透明な響きで演奏することは至難なのだ。そのピアニストのもつ能力はこの一曲ではかることができる。

勿論,ポゴレリチにとって,この様な技術的な問題は当然のことであって,その様なテクニカルなものを見せ付けようとしたわけではないだろう。この何も表現したようには思われない演奏は,おそらくは,彼がこの曲のもつ意味を何らかの仕方で(おそらくは本能的ともいえる直感によって)知っていたことによるのだろう。

この曲の調性は,奇しくも a-Mollこの調性はベートホーフェンにとっては特別なものであったように思われる。例えば,第7交響曲第2楽章がそうである。この古代叙事詩特有の韻律のリズムに基づく荘重な楽章は,通常「葬送行進曲」であると捉えられてきた。

誰なのか?

さて,先ほどの話題に戻って,この曲に付けられている “Elise” とはいったい誰なのか?

これについては全く不明である。ある学者は,これは “Therese” と書かれたものをベートホーフェンの悪筆のために誤読されてしまったものであると言い張った。しかし,そうではあれ,どうすれば “Therese” を “Elise” と読み間違えるのだろう。そもそも単語の長さが違うだろう。

ここでベートホーフェンの「第九」終楽章は,周知の通り,シラー (Johann Christoph Friedrich von Schiller, 1759-1805) の〈歓喜に寄す An die Freude〉に基づく合唱曲が挿入された。

その冒頭は次の通りである。

Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium
歓喜よ、美しい神々の火花よ、楽園の乙女よ

ここに現れる “Elysium” はギリシア神話起源であるが,この語自体は,後のキリスト教文化の中で,楽園 (Paradisum) と同一のものとして扱われるようになった。但し,シラー自身は「フリーメーソン」と深く関わっていた人物で,この詩にはその思想が色濃く反映されている。ベートホーフェンはそれに共感を覚えたのである。

少なくとも,ベートホーフェンにとって,この “Elysium” は何らかの特別な意味を担うものであった

象徴

フランスにシャンゼリゼという地名があるが,その名はこの”Elysium”に起源をもち,”Champs-Élysées” と綴る。また,象徴的体系において,”Elysium” は “Elyse” と綴られても “Elise” と綴られても,全く違和感はない。例えば,J.S.バッハの楽譜には意図的な綴りの変更が珍しくないことは,よく知られた事実である。

もしも,「エリーゼのために」が「エリジウム(パラダイス)に向けて」という意味であったとするならば,この曲は a-Moll(イ短調)が象徴する「殉教者の血」と結び付くことが可能となる。そして,「パストラーレ」を象徴する F-Dur(ヘ長調)に転調することの必然性が理解できることとなる。

ポゴレリチの〈Für Elise〉は,おそらく祈りだろう。それは何も表現しない。

ただ「在る」ものに委ねること — それが祈りであるのだから。


旧ウェブ日記2010年3月9日付

  1. ここでの「無伴奏」というのは,かなり狭い意味に限定して使っている。単に「通奏低音を伴わない」という小品であれば,探そうと思えば幾らでも見付かるであろう。逆に,フルートパートしかない作品でも,「通奏低音を付けようと思えば付けられる」類のものばかりである。ここでは「通奏低音を付すことが全く不可能なほどに完結している」という意味で「無伴奏」という言葉を使っている。
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